土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
のみ、しらみのことなど。
2012-10-23-Tue  CATEGORY: 昭和の話
 北海道の知人から、穫れたばかりの「新米」が届けられた。深川の米だ。
新米 北海道

まだ、食べていないが、楽しみである。




話は変わる。


高田渡の歌に「しらみの旅」というのがある。作詞は、明治・大正時代に活躍し演歌師の添田唖蝉坊という人だ。

♪ぞろりぞろりとはい行く先は
 右はわきの下、左は肩よ
 ボロボロ着物や汚れたシャツの
 縫い目、はぎ目を宿と決め
 明日は背中、今日は乳の下
 しらみの旅はいつまでつづく・・・



 また、奥の細道では、著名な俳句・

 

 のみ しらみ  馬の尿(しと)する枕元

がある。


 古今、のみやしらみのことを書いたものは多い。

 私たちの子供の頃にも、沢山の「蚤・シラミ・蚊・ハエ」が身近に生息していた。

 知り合いの四辻庚申通りの木下散髪店に行くと、毎回、決まって、散髪の前にツゲの櫛で頭髪をすく作業があった。ハサミやバリカンを入れる前の準備作業で、私のような子供を散髪するときの作業ルーチンになっていたのかもしれない。

 目の細かいツゲの櫛で髪の毛をすくと、毛髪の中にひそんでいる「シラミ」が取れるらしい。

 木下のおっさんが「わっ! おった、おった」「もう、ちょっと待っとってよ」「ほりゃ、じっとしといて」などと、云われるまま直立不動で木の椅子に腰掛けていたものだった。

 夜は、布団に横になると、今度は「蚤」たちが、どこからともなく、わいてきて、体のあちこちが痒くなり、寝てはいられなくなる場合もあったりする。

 しかたないので、布団から起き上がり頭上の白熱電灯を灯して、布団や、シャツの縫い目、はぎ目などをまさぐり、蚤を探す。見つけると、親指の爪と爪で挟んで「ぷちん」と退治する。「しらみの旅」で歌われた情景とそっくりだ。蚤は、装甲が硬いようで、指先で押しつけて揉んだぐらいでは、気を失うだけなのだ。

 同じ吸血昆虫でも、蚤は「メジャー」、蚊は「マイナー」という印象がある。蚊は日本脳炎などの伝染病を仲介するが、蚤は、噛まれると、ただ、痒いだけであった。

蚤のジャンプ力は、すごいものがあった。子供の腰ぐらいの高さまでは飛びついてきていたもの。

「蚊」は、あとで「哀れ蚊」という言葉を知った。
太宰治の「津軽」に出てきたと思う。晩秋の「蚊」は「哀れ蚊」といって、かわいそうなので打ってはならないという話だった。

 今は、蚤を見ることはない。蚊もこの頃は減少してきている。人間にとっては住みやすくなっている。水もきれいだし、冷蔵庫があるので食品も長持ちする。蠅がぶんぶんと飛び回っていたゴミ箱もないし、
いいことだと思うが、本当にいいことなのかは、もっと時間が立たないとわからない。

スポンサーサイト
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
庭は通り抜け自由  地縁・血縁
2012-08-07-Tue  CATEGORY: 昭和の話
徳島の我が家の南隣りには見上げるような高い土塀があった。


 阿川さんという、造り酒屋の壁だ。土塀の中を見たかったけれど、二階からのぞいても内部は見えなかった。

 こんな風であった。↓  ↓
    阿川酒造


 西隣には二階建ての貸家があった。
 ↓の写真の奥がそうだ。(子供は、私・・)
 庭 昔


 下は土蔵みたいになっていた。明かり取りの小窓が少しあるだけで、中に入ると昼でも真っ暗闇に近かった。
 この土蔵の中に、かつては2家族が住んでいた。0さんの4人家族は、入り口から入って左側に位置していた。もう一人は、一人暮らしの青年で入り口の斜真向かいにあった。この青年からは幼い私は遊んでもらったらしいのだが、あまり記憶にはない。

 土蔵の上は、2軒長屋になっていて左側にMさん家族、右側には一人暮らしのKさんが暮らしていた。やがて、Mさんは町営住宅に引越して次はTさんの家族に替わった。

 その向こうには、中庭があり、離れみたいな家にOさんの家族が住んでいた。さらに、その向こう側に大家さんの家があり県道(一宇街道)に面して玄関があった。

 この貸家に住んでいた家族(9名~12名)は、全員、我が家の中庭を流れる排水溝の蓋を、かたん・かたんと鳴らしながら出入りしていた。

 昔は、よほどのことがない限り、個人の庭は通りぬけ自由だった。家の中庭を無断で通っても誰もとがめだてはしなかった。

 例えば、小さい頃の私が、母から「豆腐を買ってきて」と言いつけられたとする。

 私は「はーい」と、母からもらった数枚の十円硬貨を握りしめ、お皿を片手に、谷さんと香川さんの間の狭い路地を通り抜け、岡本さんの中庭を通り、さらに津司さんの中庭を通りぬけて町道に出て、東出商店(豆腐屋さん)に行く。帰りは、お皿に載せた豆腐を絶対に落とさないように、きた道をそのまま歩いて帰る。

 このように、当時の、個人の庭は、往来も兼ねていた。

 どこかに行くときも、曲がりくねった道を通らないまま、人様の庭を黙って自由に最短距離で歩いていけたのである。

 いわば、当時の個人の庭は「社会的共通資本」みたいなもので、それが「常識」であったのだ。


 当時は、家族・親族や地域のつながりが強く、地縁・血縁の中で助け合いながら生活していた。

 今は、それぞれの家庭が独立して暮らしていけるような生活様式に大きく変わった。各家庭、各個人が自由を求めた結果だ。

 この変化が、グローバリズムの始まりだったのだろう。

 今は、全体的に生活水準や情報量が向上し、第三者に依存しなくても「個」でも生きていけるような変化してきている。

 そして、さらに、世の中の制度や考え方すべてが、さらに「個」にシフトするように加速している。

 公共工事の入札制度でも「個」である「配置技術者」の評価が受注に大きく影響しているし、さらに評価の重みも高く設定されるように制度改革が計画されている。

 年金制度も世帯単位から個人単位に移行するような風潮がみえる。

「おひとり様」とか「個食」という言葉を耳にするようになってきたし「孤独死」という嫌な言葉も出ている。都会では、昔では考えられない「餓死」も出てきている。

「個」の時代。

 グローバル化の波のなかで、安定した仕事が失われ、閉塞感が漂い、県、市、企業、公務員、民間人、個人・・と全てにおいて格差が拡大し続けている。


 私が子供の頃も、お医者さんの子供や小売り店舗なとの裕福な家庭もあったし、貧富の差は今よりも歴然としていた。でも、なぜか「格差」などはあまり意識したことはなかったし、そもそも「格差」という言葉を耳にすることもなかった。、不平不満も少なかったと思う。多分「みんな同じだ」という感覚だったのだと思う。物質的なものは不足していたかもしれないが今よりも豊かに暮らしていたように思える。


 先の見えない、閉塞感が漂う今のような時代には、昔のような家族・親族や地域のつながりや、地縁・血縁の中での助け合いが必要と思われるが、求めても、得られないのだろうか。


 
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
犬に噛みついた頃
2012-04-30-Mon  CATEGORY: 昭和の話
一枚の写真から。

 子供の頃、犬に噛み付いたことがある。

 その犬の写真が出てきた。スピッツだ。名前は忘れた。チロとかシロとかいったのかもしれない。
スピッツ


 
 この犬は、美馬生必(みませいひつ。卸問屋兼小売店)の共同経営者(多分)の飼い犬だ。
当時は、犬をつないで飼うという習慣はあまりなくて放し飼いが多かった。
ある日、このスピッツがひとりで我が家の近くに来たので「よしよし」と撫でていたら、いきなり手を噛まれた。

「痛っ!」

 私は条件反射的に前足をつかんでガブリと噛み返した。スピッツは「キャンキャン・・」と逃げて帰った。

 
 当時の犬は放し飼いが多いせいか、野良犬もたくさん居た。飼い犬と野良犬の区別は首輪のあるなしで判断していた。

 しかし、野良犬から危害を受けた記憶はない。野良犬があんなに居たのに路面は今よりもきれいだった。今は、田んぼや堤防を歩くと犬の糞をよけてあるくことがある。犬の糞害は人間が起こしているに違いない。

 この写真の後方には「茅葺屋根」がみえる。共同のゴミ箱もみえる。
 谷向こうの「石井のじーさん」の姿も写っている。石井のじーさんからは、よく怒られた。それも当然、私が悪いことばかりしていたから。


 幼児の記憶は三歳ころから覚えていて、もちろん、霞がかったような記憶で断片しか思い出せない。これが、5歳、6歳になってくると、はっきり度合いが増加してくる。

例えば「月がとっても青いからを聞いたのは3歳の頃」「若いお巡りさんは4歳の頃」「船方さんよは5歳の頃」「おーい中村君は6才の頃」・・と、歌手や歌詞だけでなく、その頃の情景が、だんだんとはっきりしてくる。


ページトップへ  トラックバック1 コメント0
お金のこと。
2011-10-30-Sun  CATEGORY: 昭和の話
今日も雨が降った。
この前21日と昨日の29日は、市内にゲリラ豪雨が降った。道路冠水、小規模ながけ崩れ、床上床下浸水。。

 土のうを設置したり、交通整理をしたり、土砂を退けたりであった。

 


お金のこと。


子供の頃、わが家の前の道路で、何かのお使いの帰りに、五十円玉を落としたことがある。小遣いが5円から10円が相場だった時代、50円は大金であった。

 辺りを探していたら、あとから父も来て二人で這いずりまわって探した。暗くなっても、街灯の明かりの下で遅くまで探したものの、見つからなかった。

父から厳しく怒られることを覚悟したが、叱られなかった。
「怒られなかった」という安堵もあったが、怒られなかったことが、かえって、きつかった。


話は変わる。

加川良の歌に「百円札」という歌がある。


 

♪お年玉袋の百円札
はじめてもらった百円札
はじめて手にした百円札
大金だとおもった百円札
・・ざっくり・・

 百円札は大金だった。

 東山にある白村堂の「おごま」に行くと、母屋のおっさんが、必ず一枚の百円札をくれた。それが楽しみで、毎年、登った。

 新しい年がくると、名付け親の郡大さんがお年玉袋を持ってきてくれた。袋の中には百円札が入っていた。上級生になるに連れて枚数も増えていった。


百円札の対局にあるのが一円だ。

引き出しから、百円札と一円札を引っ張り出して見てみた。
100円

一円札




 一円札は使った記憶がおぽろげにしか残っていない。デザインは思い出せない。広げても、シワだらけで印刷もはっきりしなかった。

 今になって、調べてみると、肖像は二宮尊徳となっていた。

 両袖口は、鼻水の糊でピカピカのバリバリになっていた服を着て、母からもらった、しわくちゃの一円札と1円玉を手の中に握りしめ、岡本さんの中庭を走り抜け、津司さんの前庭を通って広い通りに出て、東出商店まで走っていった。

 二個で1円のニッケ飴玉や芋飴を買った。おばさんが紙袋に入れて、紙袋の上端を両手でつまみ、くるくると回してわたしてくれた。

 小遣いは一日5円だったり10円だったり、無かったりで不確実だった。

 自分たちで小遣いを稼いだこともある。
くず鉄を拾い集めてスクラップ屋さんに売るのである。
一升瓶やビール瓶を拾って売る。針金、古釘などの鉄クズを拾って売る。なかでも「アカ(銅)」は宝みたいなもので「アカはにないか」と、四六時中目を光らせながら遊んでいた。アカはめったに見つかるものではないが、たまに道端で発見することもある。
「アカ」が見つかると、集めてボロ屋さんに持って行くと百円近くになることもあった。
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
停電
2011-09-08-Thu  CATEGORY: 昭和の話
午前5時20分起床。

 
 節電とか省エネが叫ばれている。

 子供の頃は、ちょいちょい停電があった。停電の原因は「台風」だけでなく、何でもないような日にもあった。
その頃の各家庭には、停電を見込んで「ランプ」や「ろうそく」が備えられていた。

 ちゃぶ台の真ん中に百目ローソクを灯して、家族で食卓を囲むのも、普段の日には経験できないことで、わくわくして面白かった。

 当時も、電気エネルギーに依存した生活を過ごしていたと思うが、依存度が今よりもずっと低かった。

 たまには、停電になり、ロウソクの灯火の下で一家団欒の食事をとるのも乙でいい。

 暑くて眠れない夏の夜は、団扇を片手に川べりに夕涼みにいくのも悪くない。


 6年前の台風で被災したときは、停電が数日間続いたが、水道の水は断水もなくて利用できた。

 大きな不便は感じなかった。

 そのときは、電気 < 水 だな、と思った。




 
ページトップへ  トラックバック0 コメント2
<< 2017/03 >>
S M T W T F S
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -


余白 Copyright © 2005  日々(いや、気のむくままに)読み書き. all rights reserved.