土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
徳島児童公園
2012-05-03-Thu  CATEGORY: 昭和という時代
昨日は、会社を休んで朝から黒木病院へ。ほぼ一日がかりの治療。
 血液検査、尿検査のあと抗がん剤の点滴を受ける。今回で4クール目、折り返し点だ。あと4クールがすんだら、CTなどの検査が行われ、そのデータを医師が評価し、次の治療方針を決める。

 今回、腫瘍マーカーの試験結果は少し高くなっていた。少し気にかかるが。でも、こういうデータは、日々変わるので、おおまかな傾向だけだし、あまり考えないことにした。

 まずは仕事をする。

 仕事以外では無理しないよう、できるだけ好きなことをすればいい。

 昨日の治療代、薬代24,510円と点滴と診察代46,070円、合計70,580円。前回より、内服薬が減ったぶんだけ安価になった。





徳島市、城山の近くに「児童公園」があった。
今は、跡形もないみたいだ。
 ↓の近くだったと思う。城山の近くだ、多分。
 入口児童公園


二三回は行ったと思うが、今も覚えているのは、昭和38年(1963年)、徳島市で児童の発明展みたいなものがあって、貞光小学校からは、大島先生という女性教師の引率のもと数人の生徒中の一員として行ったのだ。
市内で見たのは、喫茶店の中で先生がご馳走してくれた初めて飲むレモンスカッシュと喫茶店の外の道を走る東京オリンピックの聖火ランナーの姿だった。
そのあと、児童公園に行って、池のモーターボートに乗せてもらった記憶がある。
目的の発明展より、レモンスカッシュ、聖火ランナー、児童公園のボートの体験のほうが強烈だったらしく、今も、目に浮かべることができる。
徳島児童公園2

 徳島児童公園


 この児童公園には、ちょっとした話があって、徳島民法新聞社を退職したばかりの父が「児童公園の管理者になってもらえないか」と打診されたそうだ。しかし、父は、児童公園は選択しないで貞光に帰り、地元新聞発行をして失敗(本人は、失敗とか挫折とかはj全く思ってなかった)し、清貧の生活を送った。
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伊賀上野にて。
2010-10-22-Fri  CATEGORY: 昭和という時代
 午前5時35分起床。天候は曇り。外気温20度の朝。

 今朝は、食事をすませて、そのまま現場に向かった。最後のコンクリート打ち込みの社内検査。昨日は雨、今日は曇り、明日は雨の予想。

 グッドタイミングでの施工だ。

 仕事は、先手必勝で、先に先にしておけば、こういうグッドタイミングを選定することができる。。。



(私の)忘れえぬ人々。伊賀上野編

忘れえぬ人々

今から四十年ぐらい前の一時期、自転車に乗って、あてのない旅をしたことがあった。
 自転車旅行 旧中仙道
  (写真は、旧中仙道。妻籠付近・)

 SLと自転車
 (写真は、木曽、奈良井付近)


途中、伊賀上野でのこと。

 奈良市内のユースホステルを朝早く立ち、柳生の里で、芳徳寺や柳生陣屋、一刀石などを見てまわり、梅の名所月ヶ瀬を経由して伊賀上野市に入った。

 当時、伊賀上野近辺にはユースホステルがなくて「今日の泊まりはどうしよう」となった。

 荒木又右衛門三十六人斬りの鍵屋の辻の近くにある自転車屋でタイヤの空気を入れさせてもらいながら「旅の者ですが、どこか、安い宿はないでしょうか」と、たずねたら一軒の商人宿を教えてくれた。

 さっそく、訪ねて値段をきくと、一泊二食付で1600円。

 私は「高い!!」と感じた。

 普段の泊まりは、一泊二食付700円のユースホステルか、野宿もしくはお寺の本堂や公民館などの無料の宿を乞うという日々だったので、一泊二食1600円はちょっと高いなあという気がしたのだ。

 でも、その日だけは、人恋しくて、星空の下、草にうもれての寝袋も億劫で、無性に畳の上の布団で横になりたかった。

 そこで、気の弱い私は、宿のおばさんに「わかりました。ちょっと伊賀上野のお城や忍者屋敷を見に行ってきます。そのあとで、また、来ますので」と、そそくさと旅館をあとにして、城ではなく伊賀上野警察署をたずねた。

 カウンターの向こうに警察官が座っていた。
「徳島から来た旅の者ですが、どこか、安くて健全な宿はないでしょうか」と聞くと「予算は」と聞かれるので、「1600円ぐらいです」と、つい、答えてしまった。答えたあとで、後悔した。もっと安く言えばよかったのにと。
 
 先程提示された1600円が残っていて、これより安い旅館など無いかもしれないと反射的に口から出てしまったのだ。

 警察官は、あちらこちらと何軒も電話をかけてくれて、とある旅館と交渉して1600円で予約していただき、メモ用紙に地図まで書いてくれた。

 地図を片手に、路地から路地を通って探してあてたら、さきほど「また来ます」の旅館によく似たたたずまいだった。

 あれっ?と思ったが、安い旅館はどこもみんな似ているのだろうと思い直し

「こんにちは。先ほど、警察から紹介された者ですが」と声を張り上げた。

「はーい」と出てこられたのは、さきほどと寸分変わらない同じおばさんだ。


 さすがの私も、少し気まずい思いがしたものの、夕暮れ時も近づき、気分が心細くなっていたこともあって、泊まらせてもらうことになった。
 
 今日までの一人旅の寂しさをどこかで紛らわせたかったのかもしれない。

 人恋しい私は、いつのまにか、旅館の家族と仲良くなり・・・・図々しく旅館の私的スペースである居間にも入り込み、夜は、旅館の息子さんや娘さんと話しをしたり、トランプゲームして遊んだ。夕食は、旅館の家族と一緒に食べた。

 朝は、部屋で一人食べるのも寂しいので、旅館の居間で朝食を食べた。
私のすぐ横に、白と黒との猫が来て「ぐっ」と、口から何かを吐いた。青っぽい色をしていた。草かもしれない。・・・というようなことが今も印象に残っている。

 翌朝、ありがとうございます。それでは出かけますと、旅立つことにした。旅館代金を精算すると、夜、徳島にかけた長距離電話の電話代(約200円)を「もう、いいよ。要らない」とどうしても受け取ってくれなかった。

感謝しつつ、宿を出て、忍者屋敷を見物してから、次の泊まりの候補地「四日市」をめざした。

 旅館の名前は「商人宿松坂屋」。

 あの松坂屋の人たちは今も健在なのだろうか。

 親切に旅館をお世話してくれた若い警察官はその後どうしたのだろうか。

 ・・・・・などと、ふと、思う。
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チクロ
2010-08-12-Thu  CATEGORY: 昭和という時代
 午前5時35分起床。天候晴れ。外気温26度の朝でした。 
  
 炊きたてご飯(新米)、豆腐とワカメと白菜の味噌汁、納豆と海苔、大根おろし、濃茶をいただいてきた。 

 明日から、お盆の休みに入ります。

 駐車場とお墓の草刈をしたいと思います。






  ♪ラララ、科学の子ならぬ「チクロの子」

 かつて、僕たちは、チクロの子でした。チクロをたくさん食べて大きくなった世代です。

 チクロというのは、当時の代表的な人工甘味料です。
 私たちの子供の頃は、砂糖の代わりにチクロやサッカリンを大量に使った食べ物を食べていました。

 代表的なのは、「渡辺ジュースの素」ですが、菓子類や飲料だけに使用されたのではなくて、幅広い加工食料品に使われていたようです。

 高校三年生の頃、食料品問屋でアルバイトをしていたとき、倉庫の中に山積みされた貝の缶詰をひとつひとつ箱から取り出して「チクロ入り」と印刷された赤いレッテルを貼ったことがあります。
赤いレッテルの意味は「この缶詰はチクロが入っています。自己責任で食べてね。もし、何かあっても、私たちは知らないからね」という表示だったのだと思います。
 ということを考えると、高校三年生の夏頃までは、チクロの子だったのでしょう。

 さて、チクロ後遺症のなせるわざなのか、この頃「頭髪が薄くなった、記憶力が減退してきた、歯が悪くなってきた、膝の痛みとれない、視力が衰えてきた」・・といった障害が、次々と顕在化してきつつあります。(笑)

しかし、気持ちだけは、青春真っ盛りでいたいと思います。


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ルーツ 1
2010-06-01-Tue  CATEGORY: 昭和という時代
午前5時34分起床。天候は曇り、小雨。室内温度22度、外気温19度の朝だ。 
 
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと筍の味噌汁、納豆と海苔、キムチ、濃茶をいただいてきた。今日は、終日、雨が降った。時折、激しく降ったりして、今も降り続いている。 



私は、母のことも父のことも、知っているようで、実はあまり知らない。私が物心ついてからの父と母のことは語れるが、それ以前のことはあまり語れない。

子供の頃に両親から聞いた話の断片しかない。そういった、断片をつなぎ合わせて、父母のことを書いて見たい。

    私の旧姓は「白浦(しらうら)」という。

 私の母の親父のことから書いてみたい。つまり、私の爺さんである。「ひなた」にとってはご先祖様である。

 私は、父母のことをあまり知らないのだから、爺さんのことは、会ったこともないし、もっと知らない。父母から聞いたことも、ごくわずかだ。

 ただ、幸いなことに「貞光町史」に、祖父、曽祖父のことが記載されていたので、さらにご先祖様まで、少しだけ辿ることができる。

  爺さんの名前は「亀五郎」。この人は四国吉野川の水運をはじめて開拓した人だったという。

 

        以下、貞光町史より引用

 白浦栄三郎と長男亀五郎親子が高知県に進出して「寒峰」その他の土佐材を伐採して、池田まで流送しそれから筏に組んで徳島に運送した。吉野川流送の草分けであるが、出水のため何年も費やして運んできた材木を全部海へ流失したこともあった。川を利用する運送は無事にゆけば賃金も安く随分儲かったが、大出水-流失の憂き目を見た日には、虻鉢取らずになる。いわば、乗るか反るかの「大ばくち」だった。白浦らの木材事業は、稼ぐにも仕事の少なかった当時の端山、一宇、八千代村の男手を使ったから、山村の生活に相当な潤いをもたらした。(P.847からP.848より引用)


       ついでに、曽祖父のことも同じ町史に出ている。

 白浦栄三郎(幼名嘉蔵)天保10年(1839)11月20日生。大正8年3月29日没。彼は、定満谷口の城主山倭家長吉の末裔阿波介金郷の後孫である。その経歴概要は、農業を主とし、明治初年には材木商となり、阿波の国と土佐の国を駆け回り、吉野川の材木の流送の始祖ともいえる人である。明治維新に際し、東端山人民総代となり、維新百般の用度を勤務する。明治9年地租改正により、東端山の地主総代となり、改正事務を執りこれを完成した。明治13年小学校を自費で建築して、これを白浦小学校といった(今の皆瀬小学校)。こうした功労によって朝廷から御紋付の三つ組み木杯を賜る。


(御紋付の三つ組み木杯など、見たこともない。ひょっとしたら母屋に伝わっているのかもしれない。)

 爺さんのほうは、和服を着て山高帽をかぶっている写真が残っている。幼い頃、母から「これが、お前の爺さんだ」というふうに教えられた。

 父親と一緒に一代で材木問屋を興し、お金持ちになり、そして破産、という波乱万丈の人生を送った人だ。潰れたのは、台風などにより、吉野川に浮かべていた材木を何回も流されたのが、引き金になったようだ。

 この爺さん、趣味で「うどん店」もやっていたとかで、幼い頃の我が家には、麺棒、岡持ち、打ち台がそろって残っていた。麺棒を引っ張りだしてきては、チャンバラで遊んだものだ。

 爺さんは、懐に、ドイツ製の22口径リボルバー五連発をしのばせ、手には仕込み杖のステッキをついて、あちこちと飛び歩いていたそうだ。母が生まれたのは明治40 年の高知なので、爺さんは明治末期から大正はじめにかけて行動していたものと思われる。

 

 
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一身にして二生
2010-01-27-Wed  CATEGORY: 昭和という時代
   「恰(あたか)も一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

 福沢諭吉の言葉だ。

 先夜、Youtubeで、戦後の高度経済復興期時代の歌謡曲の変遷を聴きつつ、家人と、そんなような話しをした。

 家庭にTV受像機もなく、電話器も無かった頃。物が乏しかった頃。ビブテキが最高のご馳走だと憧れていた頃。それでも、今のような「閉塞感」は感じなくて、何かしら明るかったように思えた。

 大人や教師からは、懸命に努力すれば何とかなると言われ、本当に「なんとか」なるように思えたし、事実「なんとか」なった人たちも大勢いた。


デジタル家電、パソコン、携帯、ハイブリッドの車・・に囲まれ、利便性が一挙に増え、反対に困惑しているような「今」。先行きが、昔と違って明るさの見えない「今」。


 昭和20年代生まれの自分たちにとっては「恰(あたか)も一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」だなあ、というようなことだと、つくづく思う。

 だからといって、あの当時に還りたいかと問われると「うーん」となる。

 もしかしたら、思い切って、覚悟を決めて、あの頃にリセットするというのも、閉塞感を打開するひとつの方法かもしれない。
 ・・・ってなことは無いよなあ。


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