土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
炭鉱 その1
2011-09-12-Mon  CATEGORY: 「二つめにかかる」から

 今朝は、弱い雨が降っていた。




父は、戦時中、報国隊の隊長として、北九州の炭鉱で石炭を掘っていたことがある。
 そのときのことが詠われている。


 

報告隊長の肩書きをもち 人率い 着きたる炭山(やま)は雪降りており

 掘進・採炭・充填のうちの炭壁を掘り崩す採炭を我が隊は採る

 永遠にぬばたまの闇の底にライトを消して坐りてみたる

 掌(てのひら)に 地底の羽虫這わすとき 遠ゐる吾が子が幻に出づ

 レンバーの震動むしろ快し炭層ふかくわがノミは入る

 レンバーをひたと躰につけノミ先を凝視(みつ)むる原田金助 鍾馗のごとし
 
 掘り貫きし 巌の窄(せま)き坑道をくぐりゆくとき風吹きやまず

 通風のとびら 踵を撃つごとくばたん!と閉づる あとのひそけさ

 天井の重圧徐々に加わるや生松の梁ぱりぱりと裂く

 落盤の音も聞き馴れ一心に炭掘りくづす 炭掘りくづす



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「二つめにかかる」から (その5) 願勝寺のこと。
2011-07-08-Fri  CATEGORY: 「二つめにかかる」から
午前中から午後まで、現場踏査。
 暑かったけれど時折涼しい風が吹いた。




 父の歌には友人を詠んだのも多い。県内、県外に住む歌友の様子が描かれている。

 例えば、美馬町の友人たちをはじめてたずねたとき・・。

 

大川の 夜を渡りて松黒き み寺の古き御門をくぐる



 対岸の美馬町に行くには「吉野川」を渡らねばならない。今は、つるぎ町だけでも三つの大きな橋が架けられているが、以前は、川を渡る主な手段は「渡し船」だった。
上の歌は、多分、夕刻じぶんに貞光から喜来の渡しで吉野川を渡り、畦道を歩きとおして「願勝寺」の山門をくぐったときの情景だろう。



 

初対面の 挨拶(いや)済しとき友「絃二」 くろき眼鏡をはずして微笑(わら)ふ



 その「願勝寺」では、父は、吉本絃二さんとも、はじめて会ったようだ。私も、何回かお会いしたことがある。上品で物静かな印象の方だったように記憶している。


新しき 青き法衣(ころも)にあらためて 朝勤行に「洞」は座を立つ



 「洞」とは、願勝寺のご住職「津田快洞」さんだ。


 小学生の頃の遠足は願勝寺だった。境内の中に建てられた付属博物館や外庭での竪穴住居の実物展示などを見た覚えがある。

 願勝寺の庭は、臥鶴梅といって一本の梅の木が枝や幹を庭全体に広げていた。


 今から40年ぐらい前に、父に伴われてたずねたことがある。

 奥に通されて客間に座った。
 普段はみることはできない奥庭が広がっていた。
 父が「ここの庭の枯山水はすごいぞ」みたいなことを私にしゃべった。
 私は、枯山水の良さはわからないので「ふーん」と、ぼんやりと眺めるだけであった。

 何時間か父と住職は楽しそうに語らっていた。私は、話の内容はまるっきり覚えていないが、二人の話を横で聞いていて、少しも退屈しなかった。

 帰りがけに「ちょっと待って」。住職が一枚の水墨画を「私」に下さった。

 書画の左下に「願勝寺洞」と書かれていた。

 表装をしなければと思いつつ、まだ、表装もなにもしていない。

 探せば我が家のどこかにあるはずだ。

 ところで、旧・貞光公民館付近の道路の真ん中に1200年前の「石棺」が発見されたとき、供養したのは「願勝寺さん」だった。
 近くには「真光寺」もあるのに、わざわざ、対岸の美馬町から願勝寺さんがみえられたのは、父が、友人でもあり、古代史の専門家としての願勝寺さんを呼んだのだろうと思う。


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「二つめにかかる」から (その4) 祖母、剱山、藤井蔵相
2011-06-21-Tue  CATEGORY: 「二つめにかかる」から
 梅雨明けは、まだ先のようだ。




二つめにかかるから

「ありあけの カンテラの灯に病む母の あをき額よ もう夜の明けむ」


 「病む母」とは、名前も顔も知らないが私の祖母だ。血(ジーン、ミーム)のつながりは孫のひなたにも、私の兄の孫にも引き継がれていることを思うと不思議な気持ちになる。

「雪しずく」より

「渓ふかき 朱塗りの橋に ふる雪の かそかなるおと ききとめにけり」


朱塗りの橋とは木屋平側からの剱山登山口に架かる「垢離取橋」のことだ。

貞光口、見ノ越方面の方が交通の便がよいので、貞光口が剱山の玄関口とよばれているが、古来は、木屋平川上にある垢離取橋が剱山への表玄関とされていた。私が、はじめて木屋平側から登った頃には、屋根のついた朱塗りの木橋があった。それが「垢離取橋」だ。

橋の下の谷川の冷たい水につかりながら「六根清浄」を称え「垢離」を落とし、体を清めてから入山するのが修験者の習わしだと父から聞いたことがある。
垢離取橋から富士の池宮。「胸突き八丁」とよばれる急坂を登り追分。一の森・二の森を経て山頂に向かう。
剱山は、平家伝説だけでなく、石鎚山と同じ山岳信仰の山で、修験者の修行道場でもあったようだ。

父が住んで居た家は「垢離取橋」とそう距離は離れていないので、このような歌が詠まれたのだろう。
今は、昔の垢離取橋は大水で流失しコンクリート橋に架け替えられ、地名も「垢離取」となっている。垢離取に「橋」と名がつけば朱塗りでなければならない。そこで「橋」がとれて「垢離取」という地名になったのかもしれない、などと勝手に想像している。

「帝人事件 かまびすしきに 清貧の藤井蔵相は みまかりにけり」



当時の政界を揺るがした汚職事件と、地元出身の清貧の政治家を対称的に詠んだのだろう。

藤井蔵相をWikで検索してみた。藤井蔵相とは、徳島県麻植郡牛島村出身の政治家。高橋是清に懇願されて蔵相を引き受けた人だ。(藤井裕久とは関係ない。)

自分は、これまで、徳島出身の藤井という大蔵大臣がいたことは知らなかった。
徳島県には、三木武夫をはじめ後藤田正晴や仙谷由人などが著名だが、清貧を貫きとおした政治家が居たのだ。
今の政治家に爪の垢を煎じて飲ましたい。
藤井蔵相は1935年に50歳の若さで死去している。


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「二つめにかかる」から (その3) 父母のこと
2011-06-13-Mon  CATEGORY: 「二つめにかかる」から
 父の遺稿歌集「二つめにかかる」は目を通したことはあっても、ひとつひとつ丁寧に読んだことはあまりなかった。

 この頃になって、本棚から手元に場所を移して、時々、断片的に読んでいるのだが、これが、私にとっては、おもしろい。
 父・母の全く知らない若い頃のことが出ていたりする。

例えば、こういうのがある。
父が、木屋平の山奥から下りて貞光町に住む母をたずねたときの歌だ。

「大雨にけむれる谷を曲がり曲がり自動車(くるま)は町をまっしぐらなり」


 これは、木屋平村の山奥から、貞光町に行くときの車中の父だと思う。この、まっしぐら、というのがどことなくおかしい。当時、穴吹町と木屋平村には、すでに乗合バスが走っていたのかもしれない。穴吹駅で汽車に乗り換え貞光駅で降りる。およそ半日がかりの工程だ。

「ただ一度通りし露路のほのぐらし塀ごしに見ゆ二階の障子」


 多分、天神屋食堂と美馬生必の間の天神小路の薄暗い細道のことだ。塀も、障子もあった。どうやら、父は二度目の訪問らしい。

母の住む家に着く。

「戸をすこしあけて昼寝(ひるい)のひとなれや起こさずにしばし見まもりて佇つ」


 昼寝をしているのは、多分、母だ。訪れて「こんにちは」と挨拶しても、聞こえなくて、佇んでいる父の姿が想像できる。畳を「どんどん」と叩いて起こしたのだろうか。

「耳しひのひとの声音は幼にて弾けるごとく笑ふことあり」


 「耳しひ」とは聴覚障害者のこと。つまり、これが、私の母である。自分の声さえ聞こえない母の、弾けるように笑うは、いい。


 別の頁には、貞光から木屋平に帰るときのものもある。

「母と娘がふたり起き臥す家なれや庭踏みし時 鶏(かけろ)が鳴けり」


 短歌では、鶏のことを「かけろ」ともいうらしい。鶏を飼っていたようだ。娘とは、私の母。

「母と娘がわび住む家やそこばくの秋蚕(あきご)ねむれり 湯が沸いており」


秋蚕→晩夏から秋にかけて飼育するカイコ

 我が家は、元々、養蚕のために建てられて家だと聞いたことがある。母と娘が、現金収入として蚕を養っていたのか。


「狭き露地を耳聞かぬ娘に送られて往来(ゆきき)のしげき街道へ出づ」


 狭い露路とは、多分、この露地だと思う。人一人がやって通れる程度ではあるが、我が家から一宇街道に出るには、最短で出られることのできる露路だ。自分も、よく、この露路を通っていた。
 狭い露路


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「二つめにかかる」から (その2) 緋のみ旗
2011-05-24-Tue  CATEGORY: 「二つめにかかる」から
 午前5時30分起床。雨天。
 昨日から、梅雨いり。




緋のみ旗

「緋のみ旗」は他家(よそ)の宝になり終えしといふとき老母(はは)は坐りなほしぬ
敦盛の血筋といふを疑わず老母(はは)のなげきは「み旗」に罹る



兄の話によると、父の生家には先祖代々にわたって「平家の赤旗」が伝わっていたのだが、それを、事情があって、東祖谷山に手放すことになったらしい。その旗が、有名な「平家の赤旗」として現在に伝わっているとか。

祖母の勘違いなのか、記憶違いなのか、本当の話なのかは、今となっては「藪の中」でわからないが、私の顔を見たことのない祖母は、そのように信じ、子供らに云っていたらしい。

なぜか、徳島には「平家」にまつわる話が多い。一の谷、屋島、壇ノ浦などの近くに位置しているからかもしれないし、もともと平家は西国との関係性が深い。

祖谷地方は平家の落人の集落といわれるし、剣山の頂上の草原は「平家の馬場」とよばれる。また、頂上の「宝蔵石」には、清盛の孫である安徳天皇の宝剣が埋められていると伝えられている。

鋸の目たてをわれば小屋外に木の芽を萌す雨ふれるおと
上菲生和久保の畑は飯粟(めしあは)をつくりて鶏を放し飼ひせる
刀匠は何人ならむ錆びつきし目釘ぬきつつこころは迅る


そういえば父は日本刀が好きで、よく話をしていた。

無銘なれど(金偏に花)うるはしき大刀ぞ母のみ祖(おや)のかんばせをおもふ



母のみ祖(おや)というと、私の曽祖父母、つまり、ご先祖さまか。

唐黍の飯(いい)を食ふべて金なしと従兄弟はいひて息ふかく吸う
汗にぬれ坂のぼり来し白馬は木につながれて尾を振りやまず
すだれごしにゆれる軒端の反魂灯 母生まれし日がおもはれてならず
かたはらの人はねむたしねむたしと夕立の木に背むけて寝る
青昏き谷を降りて草丘に仰げば嶺は白雲の中


昭和初頭の山中での生活がしのばれるような気がする。



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