二十一世紀とよばれる時代に突入して、はや「一昔」が近づいています。
幼い頃、一冊30円の少年マガジンや少年サンデーなど少年誌のグラビアに、
小松崎茂画伯描くところの二十一世紀日本の想像図がよく載っていました。
空飛ぶ自動車や宇宙ロケットや月基地や南極大陸都市などが総天然色で描かれ、バラ色の未来が約束された絵柄でした。子供の頃の私は、わくわくしながら「ふーん。こうなるのか」と思いながら、ひじを突いてながめておりました。
今から思えば、たしかに、想像と現実は類似してきています。昔の漫画家か描いた夢が現実になろうとしています。そして、私たちの生活も利便性が増し、豊かにもなりました。たとえば、今では、私の家族でも一人ひとりがメールアドレスとパソコンを持っています。車など3台も持っています。先はどうなるかわかりませんが、今のところ、日々の食事などは、あの頃と較べると、毎日、ご馳走ばかりです。食べようと思えば、ビフテキなど、いつだって食べられるのですから。
でも、あの時代の頃よりも先に対する不安ははるかに大きいものがあります。それは、何なのかなあ、と考えみました。それは「失われるかもしれないという不安」だと思います。繁栄成長の陰で失ってきた何か大切なものも忘れたままになっています。
営々と築き上げてきた生活基盤の土台が、がたついています。そして、何か、社会は、ちょっと違うのではないか、と思われるような方向に向かって突き進んでいるような不安もあります。なにか、今までのツケが一気にまわってきたようです。・・・・・・
こんなに暗いことを書くつもりはなくて、もっと明るいことを書きたいと思っていたのですが「今」を書けば、このようなことばかりしか思い浮かびません。
過去の時代というのは、今を生きることのほうが先決で、先のことに思いをよせる余裕もなかったのかもしれません。そして、全てがダイナミックに動いていて「なせばなる」とか「精進せよ」などと、努力さえすれば、辛抱して我慢さえすれば、先はなんとかなるだろう、みたいな風潮がありましたし、事実もそうでした。
今は、耳にするニュースも、我々業界の行く末も、大変です。地方における基幹産業である建設産業も淘汰されています。今まで「どんどやりなさい」といった政策は、いかにして業者数を減らしていくかという方針に変わっています。小さな会社をつぶすことしか考えていないようにも思えます。これから、失業者もたくさん出てくるでしょう。職を失った人は、どうすればいいのでしょう。ある社長が「建設業?あ、それは副業です」といえるようになりたい、と言っておられました。でも、どうしても(私たちだけでないと思いますが)長年、携わってきた仕事を、まるっきり違う職に変るのは、困難が伴います。マリアビリティ(可塑性)の問題ですが、これを高めていくには時間が不足しています。
何か、急な坂道をアクセルを踏み込んで下りながら、急ハンドルを切って方向転換をしているようで、もっと、冷静にゆっくりと転換しないと、ほとんどのものが横倒しに倒れてしまう、そういう危機を感じています。