土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
ふるさとの話をしよう。
2008-02-27-Wed  CATEGORY: 昭和の話
このところ運転移動中のBGMは「北原謙二」である。中でも「ふるさとの話をしよう」は何回、繰り返して聞いていても、いい。
   (↑)注意。リンクすると、音楽が鳴ります!!

浪速のモーツァルト、キダタローの名曲である。これに「北原謙二」の甘えたような歌声が、また、いい。歌詞も、もちろん、いい。歌詞と曲と歌い手がそろうと、名曲が生まれるのだ。

ところで作詞は誰だろう。調べてみると、伊野上のぼるさんという方だ。この方のことは、あまり知られていない。しかし、「ふるさとの話をしよう」の作詞家として後世に残るであろう。

立川談志の大好きな歌としても有名である。これを知らないと立川流一門とはいえないそうだ。



当時は「赤い夕日のふるさと」「りんご村から」「別れの一本杉」「柿の木坂」「僕はないちっち」「夕焼けとんび」・・・・・数え上げると、きりがないぐらい、故郷の情景を表現した歌謡曲があったなあ。

 高田渡さんや加川良さんのフォークも、もちろん、いいけれど、私がもっと小さかった頃に、自然に聞いていた、当時の歌謡曲も、すばらしいなあと思う。

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徳島県は、貞光町の積雪。
2008-02-12-Tue  CATEGORY: 昭和の話
  積雪
 今では、雪もめったに降ることもなくなった「貞光町」ですが、私の居た頃までは、一冬に何回かの積雪を見ることができました。
貞光の積雪。


 【徳島県美馬郡つるぎ町貞光町】
第一の故郷

 北国に住む人たちにとっては「雪」は、白魔のようなものになるかもしれません。でも、南に暮らしている私たちは、雪が降ると、なぜか「わくわく」してしまうのです。

 はるかな昔、縄文人が降る雪を見て「わくわく」していた、というようなことはないと思いますが、この「わくわく」するという気持ちは、昔から、多くの人が持たれているような「遊びごころ」のようにも思えます。

 わが故郷、貞光では、雪が積もると「雪合戦」と「きんま」が、子供たちにとって主流の遊びでした。

 めいめいが手作りの「きんま」を持っていました。「きんま」とは「橇(そり)」みたいな乗り物です。二本の木に板を張り「縄」を付けただけの乗り物です。「縄」と足と体で舵をとるのです。
悪童連中は、雪が積もると、山に行って、坂道という坂道をみんなで踏み固めて「つるつる、ぴかぴか」にします。坂の途中に、ちょっとした「ジャンプ台」をこしらえることもありました。

 大人たちから、時々、学校に苦情がありました。道が滑って歩けんぞ、というクレームです。でも、そのくらいで、こんな楽しい遊びをやめるような子供たちではありません。

 子供たちは、自分たちで作ったそれぞれの坂に「心臓破りの坂」とか「別荘」とか、意味不明な名前をつけていました。
 10mぐらい真っ直ぐに滑って終わり、みたいな初心者コースから、曲がりくねった急坂の「ベテランコース」まで、それは、多彩なコースがありました。

 カーブを曲がりきれずに崖下に転落、ということもありましたが、大怪我をしたということもありませんでした。


 雪が積もると、さらにいいことがありました。
 学校が「休校」になるのです。「休校」は臨時の日曜日みたいなもので子供たちにとっては、冬の贈り物みたいなものでした。
   昭和35年頃



 静かな夜、裸電球の下で、父や母と火鉢にあたっていると「ああ、雪が降っているな」と、なんとなくわかることがよくありました。外に出てたしかめると、案の定、街灯に照らし出された空間のなかに、次から次へと白いものが降っているのが見えていました。

 「明日は、積もっているかもしれんなあ」と「わくわく」しながら眠りにつきます。
 朝、二階の雨戸をがらがらと開けると、屋根の上に積もった白い雪が目に飛び込んできたりすると、まぶしさに目を細めながら「わーーー」と喝采を上げたものです。

 でも「積もっているかもしれない」という期待がはずれたするときの落胆は、かなしいものでした。

 雪で、つぎに連想するのは「七輪」にかかった薬缶です。白い湯気を吹き上げている薬缶です。白い湯気を「しゅんしゅん」と上げている薬缶は、見ているだけで、暖かくなるような気がします。
 七輪の近くには「火鉢」があって、炭が真っ赤にいこっています。この「七輪」と「火鉢」が唯一の暖房器具でした。

母。

 
 今よりも、確実に寒かった時代なのだけれど、それで一冬を過ごしていたのです。

 今は、エアコン、灯油ストーブ、温風ヒーター、ホットカーペット、電気コタツ、どんな暖房でも、手に入ります。

 昔より、今のほうが「便利」にきまっていますが、それでも、やはり、当時の生活がいとおしくてなりません。

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どこそこいき。
2008-02-10-Sun  CATEGORY: 昭和の話
子供の頃「どこそこいき」と呼ばれる遊びがありました。
「どこそこいき」というのは、一種のかくれんぼです。「カンけり」にも似ていますが、こっちのほうが面白いということもあって、子供たちは好んで「どこそこ行き」で遊んだものです。
一言でいうと、ダーツとかくれんぼを組み合わせたような遊びです。
どのようにして遊ぶかといいますと・・。

 「おんじゃく」という石、あるいは木の切れ端で地面に大きな円を描きます。


円の中心に、小さい丸を描き、そこからスポーク状に数本の線を引きます。

スポークとスポークに挟まれた空間に「場所」を書きます。
例えば「豆腐屋」とか「長橋」とか「○○さんの家」などと書くのです。すぐ近くから遠いところまで書きこみます。

どここそいき


これで準備は整いました。

 円から数メートル離れたところに線を引いて、各人、好みの小石をひらってきて、円をめがけて石を投げます。円の中心の小さな円に入れば、鬼にはなりません。いちばん遠い場所に、投げた石が入った子供が自動的に「鬼」になります。

 「鬼」は、その場所まで走っていき、タッチして引き返してきます。
 その間の時間に、残りの子供は、めいめい好きな場所に隠れるのです。

 「鬼」は、誰も見てないので、途中で「行ったふり」をしてもわかりません。でも、ズルをする子供はあまり居ませんでした。隠れる場所も、だいたいの制限が作られていて、突拍子もないような遠いところには隠れません。

  よく、こういった遊びをしたものです。



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おんじゃく
2008-02-08-Fri  CATEGORY: 昭和の話
 「おんじゃく」という石がありました。どういう字を書くのかは詳しくは知りませんが、多分「温石」という字をあてるのだと思います。

 子供の頃の私たちの身近にあった「おんじゃく」の形状は千枚岩状になっていて、軟らかい 石でした。この石は、子供たちは日常的に筆記用具として使っていました。

  これを使うとコンクリート面や硬い地面に「チョーク」みたいに絵や文字を描くことができるのです。昭和30年代当時の子供達にとって「おんじゃく」とは遊びにかかせない必需品でし た。悪童仲間と、わざわざ、貞光川の上流の「おくがん」と呼ばれる岩山まで「おんじゃく」を採取に行ったこともあります。

 「おんじゃく」でググってみると、やはり、「おんじゃく」は「温石」のことをさすようです。昔は「おんじゃく」を暖めて懐に入れるなど「懐炉」がわりに使っていたようです。「懐石料理」というのも、このあたりからきたのかもしれません。

 さらに調べてみると「温石」とは「蛇紋岩や蛇紋岩の仲間」のようです。
 蛇紋岩といえば、土木屋泣かせの地質と、いわれています。地すべり地帯にも多くみられます。
  そういえば、私の生まれ育った貞光町は、中心部の扇状地を挟んで「ひがっしゃま(東山)」や「にっしゃま(西山)」がありましたが、典型的な地すべり地形になっています。
 また、このあたりは「三波川変成岩」という地質構造になっています。

  また、「蛇紋岩」といえば、子供の頃、一時ブームになったことがあります。蛇紋岩を川原に拾いに行って、持ち帰り、サンドペーパーと水で石の表面を磨く、磨き続けていくと、つるつるで多様な模様のきれいな石になり、それが、高く売れる、ということで拾ってきて、一生懸命に磨いたこともあります。

 また、縄文時代の石器などにも加工しやすいので使われていたことが知られていて、人間の生活に密着した石だったようです。
 また「蛇紋岩」の全国分布を調べてみると下図のようになり、「私」の生まれ育った町は、すっぽりと蛇紋岩地帯に位置しているようです。
蛇紋岩分布


  「おんじゃく」。
 口に出して発音してみると、暖かそうなやさしそうな響きがあります。

「おんじゃく」というキーワードで検索すると、いろいろなことが分かり、いろいろなことが次々とよみがえってきます。
 私は、今さら「ネット検索」の便利さや不思議さで結論づけるつもりはなかったのですが、最後は、こういうことになってしまいました。

 今の「おんじゃく」は、多分、変哲もない路傍の石ころとして、おとなしく転がっていますが、かつては、人の生活のために、いろいろと役立ってくれた「石」なのだ、ということで、この稿を締めくくりたいと思います。

 

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初めて家にテレビが来た頃。
2008-02-02-Sat  CATEGORY: 昭和の話
  我が家に、はじめてテレビが来たのは、私が小学校4年生の頃だ。当時の私は10歳だから、今から、46年前の1962年になる。
  隣の高知県でダム工事の技術者として働いていた兄が賭けマージャンで勝ったお金でテレビを買って家に送ってくれたのだ。

  しかし、真面目が服を着て歩いているような父は「ばくちで買ったテレビはいらん」と、しばらく、大きな箱から取り出しもせず、そのままに置いてあった。
  
  どのくらい放置していたのかは記憶に無いが、かなり長い間だったような気がする。
  
  親父も、ついには根負けしてテレビを箱から取り出した。近くの電気屋さんから屋根の上にテレビのアンテナを立ててもらって、ついに、我が家でTVを見られだしたのだ。トタン屋根にアンテナが立っている、というのは「うちにはテレビがあるんだぞ」という一種ステイタスみたいなものがあったような気がする。
 その夜、近所の友達も数人集まってきて、テレビの前に座り、私がスイッチを入れた。
母。


 最初に見た番組は今でも忘れはしない。水曜日7時半からはじまる「ライフルマン」だった。主演のチャックコナーズが登場して、ウィンチユスターの銃口をこちらに向けて「ダダダダダ・・」と早撃ちをする場面からはじまるのである。

ライフルマン


小坂一也の、甘えたような、都会的なような「♪どこからやってきたのやら。いかつい顔に優しい目・・・・・~」という歌声が、耳元に残っている。


  1962年当時のテレビの普及率を調べてみると79%となっている。「ふーん、そんなもんかなあ」と思うけれど、当時の徳島県貞光町では、8割もの家庭にあったかとどうかというと、もう少し、少なかったような気がする。

 まあ、そんなような時代をすごしてきたわけだ。

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