Author:G3(じーさん)
孫が居るので、そのまんまG3(じーさん)です。
徳島県で生まれ育ち、宮崎県に住んでいます。
地場中小建設業に勤務する、自称土木技術屋です。最近は、永く現場を離れているため、培われた「技術」も、かなりあやしくなっています。
●たかが資格、されど資格。
普通自動車免許
自動二輪免許(ただし400CCまで)
衛生管理者
労働安全コンサルタント(土木)
宅地建物取引主任者(ペーパードライバー)
乙種火薬類取扱保安責任者(実際に爆破作業に従事していたのは二十年以上も前なので、ペーパードライバー気味かな・・)
技術士(建設部門「施工計画、施工設備及び積算」)
技術士(総合技術監理部門)
一級土木施工管理技士(これで仕事していたものだ)
一級造園施工管理技士(ペーパードライバー)
二級管工事施工管理技士(これも、ペーパードライバー)
VEリーダー (これもぺーパードライバーだな・)
コンクリート技士(コンクリートと地質が好きです)
好きなもの、嫌いなもの。
【好きなもの】盆踊り、渡し舟、縄文時代、近代の土木構造物、食べること、河川、非・合理、フォークソング、加川良、高田渡、書物、落語、講談、映画、Web・・・・・
【嫌いなもの】脱脂粉乳、蛇、卑怯な人、理不尽な人、薬、注射、合理、弱肉強食。。。。。。。。
今日は、午前中が2件、午後から1件の完成検査があり、3件とも「いい検査」であった。あとは、来月から6月ぐらいまでに3件の完成検査がある。
あまり、検査に対して、いろいろは言いたくないが、あえて言えば「書類が多すぎる」ということだ。もっと、減らせないものか、と思う。
国の機関がいちばん多い。県や市では、ぐんと少なくなる。これは、なぜなのだろうと思う。
検査で大事なことは「目的の品質を満たした構造物が完成しているか」を評価することだと思うが、直接、品質とは無関係なものが「よく、見られる」傾向もあるように思う。
品質は、工程(施工プロセス)で作りこまれる。そこを見るのが、検査だと思うのだが・・・・・・・・。
話は、変わって・・・・・・・・・・。
「鉄筋探査計」が、欲しくなり、思い切って、購入を決めた。
社員二人に、東京まで行ってもらって「電磁波レーダー」や「電磁誘導」による探査の講習を受けてもらった。
探査計は「ストラクチャスキャン」という器械で、とても高価だ。
でも、自社の構造物に使えば、すぐに半分ぐらいは元がとれる。
この器械は、従来の電磁波レーダーと比べると、鉄筋のかぶり、ピッチ、空洞などが、ど素人でもわかる、高性能なものだ。
トンネルの覆工コンクリートの空洞調査にも、使える。
アンテナを換えれば、地下の空洞探査にも使える。
そして、弊社には、コンクリート診断士が居る。ついでに、私も、コンクリート技士の資格を持っている。
設計図書も、もちろん読める。
鉄筋コンクリート構造物の実施工経験も施工管理も豊富だ。
従来よりも、使えて、そしてわかりやすい報告書が作れるだろう。(・・と思う。)
新しい、仕事に使えないかなあ。
とりあえずは、自社物件の構造物に使ってみよう。
このごろ、といっても、ここ数年のことだが、大分県方向に幾重もの山並みのなかに、ひときわ高い山があるのを見つけた。
三十年以上にわたり同じ風景をながめてきたはずなのに、なぜ、もっと昔から気がつかなかったのだろう。そのことが、不思議なくらいだ。
この山、見えるときもあれば、見えないときもある、そのせいかもしれない。
冬には、山頂が白くなる。
黄砂が舞うと、見えなくなる。
春霞がかかると、うすぼんやりとしか見えない。
「あれは、なんという山かなあ」
「可愛岳(えのたけ)でしょう」
「いや、違う。可愛岳は、あそこじゃが」と右方向をさす。
「いやあ、可愛岳ですよ」
「可愛岳は、西南の役で、西郷さんが鹿児島に帰郷するために、夜這いのごつある、と言いながら登った山だ。あんな、遠くて高い山のわけがない」
グーグル地図で、調べて見当がついた。
多分、そうだ。
とごにでもあるような名前だが、「クワバラ、クワバラ」と覚えておけば、忘れないだろう。
「桑原山」。八本木山ともいわれる。標高1408m。宮崎県と大分県の境付近に位置している。
でも、なんで「桑原山」なのだろう。
「クワバラ、クワバラ」は、落雷よけのまじないだが、桑原山近辺には、落雷がないのだろうか。
「ここ」から、桑原山が見える、ということは、桑原山の山頂に立てば、「ここ」が見おろせる、という理屈になる。
一度、登ってみたい。
特に理由はないけれど、桑原山のてっぺんから22.7kmほど離れている「ここ」を眺めてみたい。
そんな気分にさせられる山だ。
列島に住むわれわれのご先祖さまは、山を、太古から、自然崇拝の対象して崇めてきた。
山々を眺めていると、そういう気持ちも、なんとなくわかるような気がしてくる。
今日は、仕事が取れた。入札は、二週間ぐらい前だったのだけれど、低入札された同業他社があり、それぞれのヒアリングが済んで、今日、決まったのだ。 ちょっと、ほっ、としている。
来期に持ち越していく工事は、これで3件目。すべて国の機関の工事だ。
もちろん「県」も「市」も応札はしたのだけれど、よほど「くじ運」が悪いのか、 昨年から1件も取れない。全県下から50社近くが「調査基準価格」ギリギリを目指して応札するのだから、これは「運・不運」の世界であり、博才が長けていなてと、なかなか、取れないのである。
今年からは「県」も、そして「市」も総合評価方式を取り入れていくようだ。
総合評価方式にも、いろいろな問題がある、と私は思う。仕組み、そのものにも疑問を感じるが、いたしかたないというころである。
さて、今から、音楽でも聴いてみようと思っている。
今夜は「ブラザースフォア」「PP&M」「キングストントリオ」「ジョーンバエズ」「ボブデュラン」といった洋楽を聴こうとしている。
500マイル、朝日のあたる家、グリースリープス、花はどこにいった、風に吹かれて、パフ、ドナドナ・・・中学の頃によく聴いた歌だ。意味を英和辞書で調べたり、真似したりして唄っていたものだ。
これらの歌を聴くと、気持ちが休まるような気がする。
ということで、今日はこのあたりで失礼いたします。
今日は、車の道中の眠気よけに「百年目」を久しぶりに聴いた。人間国宝、米朝の上方落語だ。
その中に、大店の主が、番頭に語りかける場面がある。
■天竺。天竺も五天竺あるそぉなが、そん中の南天竺といぅところに赤栴檀 (しゃくせんだん)といぅ見事な木があるんじゃてなぁ、見る人誉めざるなしといぅ木。ところがその根元に難莚草(なんえんそぉ)といぅ見苦しぃ雑草がはびこるのじゃて。赤栴檀は結構じゃが、この難莚草がどぉも具合が悪いっちゅうて、そいつをむしり取ってしまうと、この赤栴檀が枯れるのじゃて。
■つまり、この下で難莚草といぅ雑草がほこえては枯れ、はびこっては枯れするのが、赤栴檀にとってまたとないえぇ肥やしになる。また、赤栴檀の下ろす露が、難莚草にとってはこの上ないといぅえぇ肥やしになるんじゃそぉな。
■そこで赤栴檀がさかえりゃ、下の難莚草もほこえる。難莚草がほこえて枯れることによって赤栴檀はますます育つ。寺方と檀家といぅものはこれでなかったらいかんといぅので、赤栴檀の「だん」と難莚草の「なん」と取って、在家の人のことを「だんな」といぅものはこっから出たんじゃといぅて聞ぃてな。
■まぁ年寄りの耳学問じゃ、違ごてても笑ろぉてくださるなじゃが。わしゃなぁ、えぇ話やと思たで。世の中はこれやなかったらいかん「有無相持(うぶあいもち)」っちゅうやっちゃなぁ。まぁこの家でいぅたら、さしずめわしが赤栴檀じゃろ。この頼んない赤栴檀、こんたといぅえぇ難莚草が居てくれるお陰で、えらほこえにほこえさしてもろてる。
「持ちつ持ちつ」や「持たれつ持たれつ」では具合が悪い。やはり「持ちつ持たれつ」である。
「他人(ひと)にするんじゃねえ。自分にするんだ」である。
ブログを書くならBlogWrite今日は、一日中、雨ばかりだった。
今年の3月、雨が思ったよりも少ない。そういえば、昨年も少雨の3月だったような気がする。おかげて、土木工事は助かる。
農家は困る。宮崎県の場合は「超早場米」の田植えができない。
今日は、ひなたと家人の三人で、大分のパークプレイスまで映画を見に行った。ここには、シネコンがある。宮崎市内にもシネコンはあるが、延岡からだと、遠い。なので、相対的に近い大分に行くのである。ここからだと、1時間半ぐらいで行くことができる。
観た映画は「ドラえもん」である。正確には、「映画ドラえもん のびたと緑の巨人伝」という題名である。
ひなたは、最後まで、おとなしく、恐がらずに観ていた。
この頃のドラえもん映画は、以前みたいに「勧善懲悪」ではないようだ。
善悪、どちらにも言い分がある。どちらが「善」でどちらが「悪」と、決め付けられない映画である。あちらたてればこちらたてず、そこをどのように解決していくか、そんな作品である。
小さい子供には、わかりにくいだろう。。。と思った。
【パークプレイス】
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休む勇気。
工期に追われている現場がある。なぜ、工期に追われているのかは書かない。現場の要因で遅れたのではない、とだけいっておく。
工期に追われると、休みがない。朝早くから遅くまで仕事をしなくてはならない。
そうでないと間に合わなくなる恐れがある。
発注者も、普段は「土日は休みなさい」ではあるのだが、工期に追われると「なんで休むの?」という。
一日は24時間もあるじゃないか、とも言う。
職人を増やせばいいじゃないかとも言う。
狭い場所に、人海戦術をかけても、効果はない、といっても「そうかなあ」と言う。
しかし、働きづめだと、体の疲れ、こ精神の疲れが蓄積していく。
すると、いい仕事がしにくくなるし、危険になる確率も増える。
やはり、作業をしている人たちの様子を観察したり、話しをすることによって、そういう状態が察知できたら、無理をしないで休むことが大切だ。
忙しいときほど、追われているときほど「休んでもらう」勇気も必要になるのである。
私は、本は、基本的に自分のものにしないと落ち着かない、という性癖をもっている。
つまり「本を借りて読む」のがいやで、本は、自分の所有物にしないと、落ち着いて読めない。
図書館から借りると、返さなくてはならない。「返さなくてはならない」というのが気になって、読めないのである。
しかし、本は、高価だ。欲しい本になると何千円もする。
なので、よく使うのがAmazonの「中古商品」だ。ここだと、一冊の書籍代+送料(350円)で求めることができる。中古といっても、傷もアンダーラインもなくて、新品とあまり変わらないものが送られてくる。
例えば、この前、注文したのは「日本とは何かということ・・by山折哲男・司馬遼太郎」。新品価格は1260円だが、中古商品だと121円+送料350円、461円で求めることができる。
これだと、いつでも読める。
しかし「いつでも読める」ことから、積ん読になっているのも、結構、ある。
私の机の右側には、途中まで読んでそのままの本や、再読しようとして、そのままにしているのが11冊ほど積んである。
そんな、ところだ。
今日は、仕事を休んで、家族で熊本市内の親戚に行ってきた。
お昼は、沢山のご馳走をいただいた。
天気は、午後から晴れ間が広がり、気持ちのよい風が吹いていた。
帰りは阿蘇の「ファームランド」に立ち寄り、短い時間ではあったけれど「元気の森」で汗ばむほどは遊んできた。
今回、デジカメを忘れてしまったので、「ひなた」が走り回る写真や動画は撮影できなかった。
・・・・・・・・というような日を過ごした。
「貧すれば鈍する」とはよくいったものだ。
入札制度が変わって、総合評価方式という名の価格競争になってから、公共土木工事は「商売」の要素が強くみられるようになってきている。
なにも、「商売」を否定するものでもないし、見下しているわけでもないのだが、金銭だけを追求していくのは公共工事の本来の姿ではないと思う。
我々が、継続しつづけていくためには「利益」は必要だ。でも、原点は「もの造り」つまり「工業」である。「技術」である。
それが、商業だけに偏るのは、おもしろくないのである。
今のままいくと、また、大事なものを失ってしまうのではないか、そんな、危機感がある。
今朝は、会社の裏山からウグイスの啼く声が聞こえてきた。
山つつじの花も咲きはじめて、春、を実感させる、この頃である。
職人と話をした。
いい仕事をする、腕のいい「職人」と話をすると、実に、楽しい。話をしていると「わくわく」してくる。
彼らは、自分の仕事に対して、誇りを持っているので、仕事への取り組み方が、真剣そのものである。
私の親しい職人は、なぜか、型枠大工さんが多い。型枠大工といっても、型枠を組むだけではない。足場も組めば、コンクリートも打設し、二次製品もならべる。それぞれの施工は、早くて、確実で、きれいである。
高い品質のコンクリートを造るためには、手間をかけた妥協しない施工と、設計図と寸分も変わらない確実な型枠が要る。きちんとした型枠を組み立て、解体するためには、きちんとした足場が必要になる。
これらは、いいコンクリートを完成させるための、一連の作業であり、よどみがあると、いい仕事はできない。
・・・・・・と思う。
帰ろかなぁ。
帰るのよそうかなぁ。
わたしの生まれ育った「貞光町」。GWに、もし時間がとれたら、ぶらりと訪ねてみようかなぁ、と思案している。
明け方「臼杵〜八幡浜航路」のフェリーに乗船すれば、午前中には「貞光町」に入ることができる。
延岡から臼杵まで1時間余り。フェリーで豊後灘を渡るのに2時間。八幡浜から貞光まで高速で2時間。
わずか、6時間くらいで着けるではないか。
いつまで営業するのか先行き不安な「貞光劇場」に、今のうちに、行っておきたいし、街をぶらぶらと歩き「貞光うどん」や「貞光のお菓子」を食べてみたい。
そして40年ぐらい前の同じ場所の写真と「いま」を比べてみたい。
今日は、月一回の経営会議があった。
どこの部署もあいかわらず厳しい。
でも、こういうときでも、好調な部門がある。いや、こういう厳しい環境になっても「好調を維持し続けている」のである。
いままで、他の部門が好調なときでも、好調だったので、こういう厳しい環境になると「好調さ」が際立って見えるのだと思う。
こられ、好調な部門の特徴は「特命受注が多い」ということが共通している。
自分たち「公共土木部門」では特命受注というのは、ほんの少しはあるが、ほとんどが価格競争になっている。総合評価方式といえども、根底は価格競争になっているのが現実だ。
なんでもかんでも競争なのである。
競争は悪いことではないが、過ぎると「よくない」と思う。でも、競争せざるを得ない状況なので正々堂々と競争をしていくのである。
昼のNHKニュースで、県内の先月における企業倒産は6件あり、そのうち半数は「建設業」である、という報道がされていた。建設業の経営環境は厳しく、春先から夏にかけて倒産が相次ぐであろう、という予測もされていた。
昨日、古いファイル、といっても4年前の建設業のリストを見ていたら「ああ、ここも無くなった。この会社も今はないなあ。」と思いながら、わかっていても「愕然」とした気持ちになったのである。
弊社とて、こういう厳しい状況は「他人事」ではない。明日は我が身、という不安定な立場に居る。どうなるか予測もつかないが、めげないように頑張るしかないのである。
今日、芝浜を聴いた。芝浜とは、江戸落語の代表的な人情噺だ。
登場人物は、魚屋の夫婦。大家も間接的に出てくる。
この夫婦、素晴しい夫婦だ。
亭主は、酒飲みの怠け者。しかし、女房思いで優しい。
女房は、亭主思いのしっかり者。
落語だけれど笑うところはほとんどない。
ただ、聴いていると、自然に涙が出てくる。
上方落語もいいけれど、江戸落語もいいなあ。
芝浜は、文七元結と同じで、三遊亭園朝の作品。
三遊亭園朝という方は、すごい人だなあと思う。
芝浜。
機会が、あれば、聴いてみてください。
桂三木助や立川談志の十八番だ。
鉄筋などの「鋼材」が異様なことになっている。
スクラップ価格や鉄鉱石などの価格高騰により、メーカーが製造調整にかかっているらしい、という。製造者サイドとしては、できれば注文を受けたくない、という意思が見え隠れしているように思える。
現在の、鉄筋の価格はトン当たり93,000円ぐらいにあるが、今後、どこまで価格が上がるのか、想像がつかない状況なので「価格未定」で、発注するしかない、という異様な状態になっている。
スクラップや鉄鉱石は今も価格が上がり続けている。メーカーとしては「価格が安定するまで」様子をみたい、というのが本音であろう。
かつて、そう遠くない過去に鉄筋はトン当たり26,000円という時期があった。それが、今や、4倍、5倍になろうとしている。
現在の、急速な価格の大幅変動に、設計価格がおいついていけない。後追いもできない。鉄材料を大量に使う現場などは、実行予算超過になり、予想利益が大幅に減ったり、持ち出しになったりするところが、出てくるであろう。
私たちが、はなたれ餓鬼であった頃、遊びに没頭しながらも、常に、周囲をうかがっていたものだ。目線の先に、スクラップを見つけると、すぐに拾い集めて、ボロ屋に売って小遣いにしていたことがある。
当時の子供は、小遣いも自給自足的だったのである。
古釘や錆付いたカスガイ、針金、鉄板、いちばん高かったのは赤がね(銅)、これは、鉄の何倍もしていたので、電線のきれっぱしでも見つけると「宝物」を掘り出したような気分になったものだ。
そんな、物資欠乏時代を思い起こされる「今」ではある。

先日は、家人の知り合いから「甘酒」をいただいた。
私にとって「甘酒」といえば「祭り」だ。
「祭り」というと「甘酒」になる。
祭りには、親戚一同が我が家を訪れてわいわいがやがやする。
母は、祭りの日が近づくと多忙になる。
隣の酒造店から「麹」を買ってきて、大きな甕で甘酒をしこむ。
祭りの前日から当日の朝にかけては一段と忙しくなる。
私は、黙ってそれを見ている。
釜土の上に、蒸篭を何段か重ねて、団子をふかす。
「煮しめ」を作る。
「魚寿司」もつくる。
「そば米雑炊」もこしらえる。
五目寿司をつくる。
大きい盥に入れて、団扇で扇ぎながら「ご飯」と「甘酢」を、しゃもじであわせる。
団扇は、私の役目だ。
片っ端から「寿司飯」をつまむ。これは、私の役得だ。
「五目寿司」と「甘酒」は母の得意中の得意料理だ。
母の甘酒は、冷えても温めても「うまい」。
米の粒が、やわらかく、それでいて「つぶつぶ感」も失われていなくて、絶妙なバランスであった。
甘酒は「甘く、すっぱい」。
これを温めて、生姜をすりおろして、いただく。
「ほーーっ」とする。
たった一杯の「甘酒」は、沢山の記憶をよみがえらせてくれる。
野良犬の姿を見なくなったのは、いつごろからだろうか。
今は「ペットブーム」で、犬は、とても大切にされている。しかし、街をほっつき歩いている野良犬を見かけることは、ついぞなくなった。
子供の頃どこにでも居た、あの野良犬たちはどこに行ってしまったのだろう。
当時は、つないで飼っている家は少なくて、ほとんどが「放し飼い」だった。本当の野良犬と飼い犬をどこで見分けるかというと「首輪」のあるなしだった。
野良犬が人に対して悪いことをした、というのはあまり知らない。せいぜい、ゴミ箱を漁るぐらいだった。中には、鶏舎を襲うことも耳にしたが、そういうのは滅多になかった。
今、犬の糞が落ちていて困る、というけれど、それは同伴している人間の仕業であり「犬」のせいではない。
昔は保健署の職員が「犬取り」に回っていた。子供たちは「犬取り」が大嫌いで、悪魔か何かのように毛嫌いしていたものだ。
我が家は、家族全員、犬や猫が好きで、私も、当然その影響を受けている。
幼い頃には「クマ」という名の雑種を飼っていて、私は「クマ」と一緒に食事をしていたそうだ。
小学4年生の頃には、鉄道のガード下でダンボール箱の中に捨てられ鳴いていた三匹の黒犬を「わしはこれ」「わしはコイツにする」と、悪童仲間でそれぞれ持って帰ったことがある。
父と母からは「犬は飼わん」と叱られたが、結局は「むつ」という名前を私から付けられて、我が家で過ごすことになった。
犬たちも「自分たちを好いてくれる」のは、わかるらしくて、我が家には、よその家の犬がよく遊びに訪れてきた。
「テツ」「はち」「ゲン」「じょー」「ロセ」「サン」「ダイ」・・まだまだ、居たが忘れてしまった。
「テツ」などは、必ず夕方の決まった時間に遊びに来て玄関で、扉を前足で、ごりごりと引っ掛けながら「わん。わん」と吼えた。私たちとひとしきり遊ぶと「さっと」自分の家に帰ったものだ。
「はち」は、近所の逢坂さん宅で飼われていた犬で、夏の真っ盛りになると、我が家の涼しい台所の土間に侵入してきて寝ていた。母から「はち!!。ここで寝たらダメ!!」と、外に追い出されていたのも懐かしい情景だ。
「サン」と「ロセ」などは、ついには家出同然になり、我が家の縁の下をねぐらに定めて、住み着いたものだ。そこに、行き倒れの白い野良犬「シロ」が私の母に助けられて、住み着き、三匹の犬が居ついたこともあった。
これら自由の犬たちは、人間に「自分の最期」は見せなかった。死期が近づくと、自然にどこかに姿を消していなくなった。あの、図々しい「はち」でさえ、最期の姿は、主人に見せることなく、姿を消してしまったものだ。
また、近所には、野良犬の集団が居て、大きな家の床下で暮らしていた。野良犬なので、けっして人間にはなつかなかった。夕方頃、10匹近くの野良犬が集団で近くを走ったりすると、少し、こわいものがあった。でも、彼らは、人に対して危害を加えるということはなかった。
父は、野良犬のリーダー「足短(そくたん)」と、仲がよくなった。父が座って「こいこい。足短」と呼びかけると、尻尾を振りながら、父の膝元に近寄って手をなめたりしていた。
「足短」は、他の者には、けっして心を許すことはなかったが父にだけは許していた。
とにかく「野良犬」が居なくなった。放し飼いもできなくなった。そして、世の何もかもが殺風景になってしまった。
この日記は「BlogWrite」を利用して書いた、はじめてのテキストだ。無料版をダウロードして使っている。
使い方や機能を知るには「まずは使ってみる」ということが、いちばん、早道なのだ。
「表」の機能がある。ちょっと試しに使ってみる。
(表: 囚人のジレンマ)
| 自分/相手 | 協調 | 裏切り |
| 協調 | 3 . 3 | 0 . 5 |
| 裏切り | 5 . 0 | 1 . 1 |
ちゃんと、表になっているだろうか。
★ ★ ★ ★ ★ ★
佐伯泰英さんの書いた時代小説がベストセラーになっている。書店では、シリーズものが平積みされている。
小説の類は、このごろ読んでいないのだけれど「どんな本なのだろう」という好奇心に負けて、書店で求めた。
居眠り磐音シリーズの「陽炎の辻」という文庫本だ。
我が家のトイレの本棚には「列島創世記(旧石器、縄文、弥生、古墳時代)」、 「ブラウン神父の童心」が並べられていて、そこに「陽炎の辻」が今回、加わったのである。
感想。
考えなくても楽しく読める。小説の場面を頭の中で想像するだけで無心に読める。これは楽だ。時代劇TVドラマを本で見ているみたいな感覚におそわれる。
作者は、写真家であり、海外を舞台にした小説を書いていたらしい。58歳になって、はじめて時代物を書きはじめたという。昔の、東映時代劇や山手樹一郎などの影響もあったのかもしれない。
文庫本一冊、これなら1,2時間で完読できるだろう。そして、また、次の作品を読みたくなる。
ベストセラーになっても、おかしくはないない。
しかし、作者もどこかで言われているように、同じ本を二度読みたくなる、ということはなさそうだ。

