会社が休みのとき、朝、いちばんから並ぶのだ。
図書館のロビーは8時半に開けられる。図書館自体は9時に開く。まずは、8時半の開扉を見計らって行ったら、三番目で並んだ。
30分間は、ipodの落語(今日は、圓生の居残り佐平治)を聴くので、ひとつも退屈しない。
開扉、と同時に館内にどやどやとなだれ込む。いつもの一人掛けのデスクを確保し、ノートと本を広げた。
しかし。しかし、である。
やる気があるのか、ないのか。
集中できないのだ。
私の計画では、今日は、ひびわれ関連のテーマ、劣化関連のテーマについての課題を作って、600字の原稿用紙に3枚で書くつもりだったのだけれど、設題のところで止まってしまって、前に進まないのだ。
11時過ぎまで、努力したがダメだったので、あきらめて帰宅した。
こういうときは無理しても、甲斐はないのだ。
また、明日(正確には明日の夜)である。
午後からは、いい天気だったので、家人とひなたの三人で、海岸沿いの草原で草そりで滑ったり、遊具で遊んだりして、汗とホコリにまみれた。
では。
今年度の経営状況、反省が、各部門から行われた。
そして、引き続いて、来年度の各部門からの目標や計画の発表があった。
今年も、なんとかなった。
全社員の努力の結果、である。
最後の最後まで「どうなるのだろう」と予断を許さない状況が続いたが、結果として、なんとかなった。
夏季・冬季の賞与も、支払われることができた。
弊社は、次年度の賞与は、夏季、冬季として今年度の決算から支払うのを、原則としている。
次年度「もし、よくなかったら」支払えなくなるかもしれないので、今年度で支払える場合は、支払うようにしているのだ。
今年は、去年よりも利益は落ちたが、こうやって、支払うことができることは、うれしい。
よかった。
来期も、厳しい。
特に、民間は、100年に一度の影響をモロに受けていて、ほんと、厳しいのだ。
それでも、精一杯、やれることをやって、いく。
では。
「へえーっ」と口に出さないで叫んだ。
・・・で、思い出した。
比叡山には一回だけ団体旅行で行った。せわしない工程のせいか、あまり印象は残っていない。
高野山にはプライベイトで二回登った。
一回目は、和歌山市内の住友金属従業員宿舎から出て、九度山の真田屋敷に立ち寄り竜神高野スカイラインを自転車で登った。
昭和46年7月17日のことだ。
遍照尊院という宿坊で一泊した。当時は、ユースホステルとして利用させてもらった。
二回目は、新婚旅行でホンダシビックを運転して登った。昭和50年の4月某日のことだ。このときは、恵光院という宿坊に泊まった。
私は、霊感的なものにたいしての感受性が低く、ほとんど不感症である。 (霊的なものがあるとしてだが・・)
しかし、高野山は、一回目のときも二回目のときも「ここは、なにか居るれる」と感じた。
高野山という霊場が、アジールというのかはしらないが、別の空間のように感じられた。それは、高野山に対する知識や、山上とう奥深い場所、参道と奥の院の子宮的な配置、そういうものが「ここは違う」と感じたのだろう。
高野山の町には、学校も飲み屋もパチンコ屋もある。どこでもある世俗的な町だ。しかし、足を踏み入れると、世俗的なものと神秘的なものが並立しているところというのが分る。
威厳、 荘厳、神秘的、歴史の重さ、そういったものが「ここは、特別な場だ」と思えるのだ
再訪したい場所のひとつだ。
現場は大分県境に近い場所だ。
このあたりの日豊本線が開通したのは大正12年の暮れ。西暦1923年だ。
(大正12年いえば、関東大震災の年だ。)
竣工して、約90年近く経つと、山の木々も生長し、鬱蒼となっている。自然林なので、簡単に倒れるものではないが、台風のような強い風が吹いたりすると、支障をきたすことになる。
その予防保全のために、必要最小限、伐木するのだ。
伐木は、すぐ近くを直流2万ボルトの架線があって、もしも、触れたりすると、トリップ事故を起こすので、慎重に慎重を重ねて、安全第一で切るのだ。

このトンネルも、線路も、大正12年に竣工した当時と、たいして変化していない。
昔の職人たちの、きちんとした仕事は、21世紀の今も、社会資本として、立派に役立ってくれている。
では。
きれいに整備された昭和の商店街が続いている。
わが貞光町は、わざわざ「昭和の町」と命名しなくても、そのまま昭和の街並みが続いている。と、いうより時代の進歩(何が進歩なのか大いに疑問のところがある・・)から取り残された街並みといえるだろう。
古い街並みというのは、列島の田舎町を歩くと、あちこちと、案外、残っているような気がする。
取り残された町は、現在のように画一的なものでなく、その土地、土地の、風土によって、それぞれ違った街並みを形成しているのだろう。
まだ、整理途中ですが、貞光町関係者であっても、なくても、のぞいてみてください。 ↓ ↓
こんな町です。
午後からは、地元大学の開校10周年記念式典に「さくら」として参加してきた。沢山の来賓が見えれていて、東知事も来て、挨拶をした。
昨日、県庁にガソリンをまかれたことをネタにして、笑いを誘ったが、事件の性格もあったのか、あまり受けなかった。しかし、話は、うまい。芸人である。
行き帰りの車では桂米朝の「らくだ」を聴いた。 くず屋が出てくる噺だ。
(くず屋は、私の知っている範囲では「井戸の茶碗」にも出てくる。)
私も、ずいぶん幼い頃だと思うがくず屋さんを見たことがある。
天秤はかりで、本や紙などを量っていたのを、おぼろげながら映像として頭の中に残っている。
当時は、くず屋さん、いかけ屋さん(鍋、釜の修理)、こうもり傘の修理屋さん、魚売り屋さん、たちが、家々を訪問して、商売していた。それが「商売」として成り立っていたのだなあ。
ただ、それだけのこと。
「一生懸命は誰でもできる。要は、結果だ」と言われたことがある。
そのときは「たしかに、そうだ。俺なんかは甘いなあ」と思った。
でも、そうだ、と思いつつ、同時に「そうなのか」という違和感もあった。
結果だけ見て判断するのは、やはり、間違っている。
結果だけなら「運がよかった」とか「ついてなかった」と同じだことになる。
・・なんで、こういうこと書いたかというと、昨日、今日と、賞与等の査定をしていたからだ。
働く日常を見つめていると、誰が誰よりもよくて、誰が誰よりも悪い・・という判断は、ほんと、難しい。
高収益の現場もあれば、予算よりも落としてきた現場もある。
やりやすかった現場もあれば、やりにくかった現場もある。
制約条件がうるさいところもあれば、逆の現場もある。
いろいろな、多様な、なんかかんか、いっぱい、ある。
・・・・・そういうことを見ていると、結果だけじゃあ、ない。
なら「一生懸命か」というと、それだけでもない。
利益でも一生懸命でもない「何か」もある。
その「何か」は、複合的なもので、一口に「こうだ」「これだ」とは、いえない。
明日、明後日は、休む。
明日の午前中は、図書館にこもって、勉強する。午後から、仕事。
明後日は、午前中図書館。午後から、ひなたと付き合う。
では。
【米疾病対策センター(CDC)は1957年より前に生まれた人の一部に、新型に対する免疫がある可能性を示した。 】
・・・・・・という説があるらしい。
たしかに、昭和30年代以前に生まれ育った人たちは、知らず知らずのうちに、様々な免疫が身に付いているのかもしれない。
今から思えば、当時の衛生環境は、今みたいに「きれい」ではなかった。街角に置かれたゴミ箱には、蝿が黒山のようにたかっていた。蚊も居た。蚤シラミも居た。 畑は下肥の香りがしていたし、冷蔵庫もなかった。
当時の医者は、専門化されてなく、聴診器と反射鏡だけで診断を下した。
一人の先生が、盲腸を切ったり、歯を抜いたり、眼を洗ってくれたり、赤ちゃんを取り上げたり、切り傷を縫ったり、なんでもこなせるオールマイティの医者だった。
赤痢、疫痢、天然痘、コレラ、ジフテリア、小児マヒ、日本脳炎・・・・・。こういう伝染病が流行った。生徒が伝染病にかかって亡くなったりすると、保健所から白装束の係員が大勢で、学校のトイレを消毒する光景がよく見られた。
学校の便所には、手洗い場所に、白い洗面器が置かれ、消毒するようになっていたが、消毒する生徒は、ごく少数だった。
私たちは、細菌やインフルエンザウイルスを、発症しないまま、知らないうちに体内に取り込んでいたのだと思う。
こういう環境をなんとか生き抜けてきた「私たち」には、免疫力や抵抗力が自然に備わっているのかもしれない。
しかし、当時は不衛生だったのかというと、一概に「汚かった」とはいえない。
川も山も、今よりずっときれいだった。蛍も飛んでいたし、夕暮れ時になると、蝙蝠が羽虫を食べるため空を舞っていた。カブトムシやコガネムシ、クワガタは家の中にまで入ってきた。
ウナギ釣りの餌は、ヒル が近くの谷川で獲れたし、アブが飛んできて襲われたこともあった。
(ヒルやアブは水のきれいな所にしか居ない)
いいのか、悪いのかはわからないが、今は、当時と、ほぼ逆のような気がする。
それだからどうした、といわれても仕方ないが、ただ、それだけのこと。
A社の価格が極端に安かった。他社とは、かなりの開きがある。価格だけなら、このA社で決まりだ。
でも、それでいいのか。
今まで培ってきた既存の会社と自社の信頼関係はどうなるのか。
とはいっても、この金額に合わせてくれ、とはいえない。
それでは、見積もりではない。
やはり、金額の多寡ではない。
目の前の「価格の安さ」だけで、いいのか。
現場も、既存の会社にしたいという希望が強い。
A社は相対的に安い、安いけれど、既存の会社の見積もりも、けっして「高い」わけではない。予想したとおりの付加価値は確保できる価格である。
協力会社と自分たちの関係は「価格」だけではない。値段の安さだけで決めてはならないものがある。いい仕事、安全、今までに培ってきた信頼など、目に見えないモノもある。
既存の会社にしよう。
しかし、せっかく「安く」見積もってきたA社のことは考慮しなくていいのか。
それなら、最初から見積もりなど取らない、といったほうがいいのではなかったか。
とはいうものの、あまりにも安すぎる。これで利益が出るのだろうか。
破れかぶれではないのか。(受注したいがための・・)
これを続けると、新しい会社が参入できないできる余地はないではないか。
現場も、私も、甘いのではないか。この経営環境の厳しい時代に、そんな余裕をこいていられるのか。
A社は、社長、営業担当者、受注するために「しつこい」と思われるほど一生懸命である。
A社に決めたら、会社の付加価値は(予想よりも)上がる。これは、正直、魅力的である。
しかし、あまりにも安すぎて不安が残る。A社の利益は確保できるのか。
ダンピングではないのか。
それに今までの信頼関係。
以上、問題点を踏まえた上で検討した。
結論。既存の会社に決めた。
甘いかもしれないが、弊社だけでなく、多くの中小企業の土木屋の結論は、だいたい、同じだと思う。多分。
国道九四フェリー

佐伯~宿毛の180分。臼杵~八幡浜の150分。 別府~八幡浜150分に対して、佐賀関、三崎間は、70分と、船旅が短い。運賃も安い。1時間間隔で出港している。船は小さいけれど、海上が短いので、揺れない。

【船内】

三崎港から八幡浜市までは、メロディラインと名づけられている国道197が半島の中央部に通っている。
30分ほどで八幡浜に着く。メロディラインから眺める風景もなかなか趣があってよい。
つまり、大分の佐賀関から八幡浜までは1時間40分で行くことができるわけだ。
【メロディライン】

八幡浜からは、市街を通って夜昼トンネルを抜けて大洲。大洲から高速道路に乗るのが一般的だ。
しかし、八幡浜市街を通って大洲まで行くよりも、八幡浜市の手前、保内というところで、国道378号に左折して瀬戸内海を左に見て走る「夕やけこやけライン」に乗り、伊予ICから高速道路に乗るほうが、交通量も少なく、美しい景色を見ながら快適に走れる。
徳島からの帰りは、伊予ICで降りて「夕やけこやけライン」を走ったのだ。
次回は、行きも帰りも、こちらにするつもりだ。
【夕やけこやけライン】

【夕やけこやけラインの日の入り】
残念ながら、夕焼けは時間が早くて見られなかったが、多分、名前にふさわしい、荘厳な瀬戸の夕焼けが見られたに違いない。瀬戸を眺めながら、夕焼けを想像して走った。)

「たまたま」とか「偶然」の積み重ねの結果、今年も、なんとかなった・・と。
この「たまたま」は、いったい何時まで続くのだろうか。今までは、断ち切れることなく「たまたま」が続いてきたが、来期も「たまたま」が継続するという保証はないし、根拠もない。
我々は、不安定な立場に居ることを余儀なくされている。
この時期は「金魚鉢の金魚」であることを、つくづく思い知らせられてくれる。
その折々の政治や世論に振り回されている。
しかし、しかし、公共工事の施工が経営基盤であるかぎり、これは「宿命」みたいなものであって、この受動的な立場から、逃げるわけにもいかないのだ。
その中で、我々ができることは、時代の流れを見誤らないように冷静に見つめながら「いい仕事をしていく」「精一杯、やるだけやる」しかないと思う。
それが「たまたま」の積み重ねなのだろう。多分。
あくまでも受動的な体制の中で、主動的に考え動いていくしかないのだ。
一方、金魚鉢の外に踊り出て、新規事業を手がけていく方法もあるのだけれど、これは、口では簡単だが、実施は困難で、外でバタバタともがき苦しんでいくことのほうが多い。
例えば、我々に寿司を握れといっても、軍手で寿司は握れない。なら「軍手をとっとしまえ」と云われるが、永年にわたって身に着けてきた「軍手」は、体の一部になっていて、脱ごうとしても、取れないのが実情なのだ。
来期もその次も、また次も、またまた次も、ずっと「たまたま」でもいいので「今年も、なんとかなった」と思いたいものだ。
私は、こういう古い構造物を見るのが好きだ。
こういう「廃墟的」なものにこころを引かれる。
これは何なのだろう。
三橋美智也の「古城」みたいなものだ。きっと。
小椋佳の歌に「♪1時間もすれば飽きてしまう、自然を賛美し・・」というフレーズがあり「なるほどそうだよあ」と共感もするが、人の手がはいった、こういう構造物は、1時間見ていても飽きがこないのである。
構造物が造られた背景に想像が及ぶのだ。企画した人たち、設計した人たち、造った人たちの、いろいろな思い入れがある。それは、きれいな思いだけでなく、どろどろした思いもあるかもしれない。しかし、そういった思いをすべて認めて、いいなあと思える。きれいな川と奇岩。その中で、廃墟めいた構造物は、長い時間をかけて「自然」に溶け込んでいる。
船頭さんの説明では、昔はこのあたりに対岸に渡る橋がなかったので、今から約60年前に、有料で渡れるつり橋を造ろうということになったものの、途中で頓挫した。取り壊されることなく、名残として、残っているのだ。
挫折の理由は、左岸側の徳島本線の線路敷きに橋台がかかることになったため、という。なんで、事前にわからなかったのだろう。
そのあと、架橋を断念し、取り壊されることなく放置され、幾たびもの出水による、吉野川の激流に耐えて、屹立している。洪水時の土砂がぶつかり、橋脚の表面は荒れている。
こういう構造物は、景観として「保護」あるいは「維持」してもらえたらなあ、と思う。
「寅のような男がふらふら歩いていたら似合う町」。
と、山田洋次監督に言わしめた町、貞光町(つるぎ町に改名)に、それはある。
昭和七年に開業されて以来、今も、営業を続けている国内屈指の現役の「映画館」だ。
私が、4月29日に行ったときは「成人映画」を上映していた。入場料1000円を支払って入った。
チケットはなかった。1000円札1枚を手渡して入る。料金の受け取り、映写、すべて館主ひとりでまかなっている。
館主に「写真を撮らせてもらってもいいですか」と許可を得、思いつくまま撮らせていただいた。
「あんな。中の映画は撮ったらいかんけんな。法律がうるさいきん。」 と、盗撮禁止のポスターを指差す。
「はい。わかりました。絶対に撮りません」と答えて観客席に入った。暗闇に目が慣れて、場内を見回すと、お客の姿は一人も見当たらなかった。
他のお客がいたら撮影など、もってのほかだが、幸い、今回は、私ひとり。少し遠慮の気持ちも働いたが、チャンスは今回しかない、と、ストロボをたいて館内を撮影した。
【館内のポスター】

一通り撮影してから、外に出て、館主と昔の話をさせてもらった。
以前は、脇町にある「オデオン座」。美馬町の喜来にあった「美馬劇場」、そして当館の三つの映画館を経営されていて、今は、貞光劇場だけを経営されている。
「偏屈者」。
館主は、どこにでもここにでも居るような、フツーの変わり者ではない。
名うての「偏屈者」だ。頑固、偏屈、狷介・・といった言葉が似合う人だ。
しかし、偏屈者だからこそ、シネコン全盛の時代に、人口一万人足らずの田舎町で、今も、毎日、映画をかけ続けているのだ。
上映時間は、13:00から22:00まで。体調が悪いとき以外は、年中無休だ。
後継者は、多分、居ない。館主の代で歴史を閉じるのだろうか。
願わくば、いつまでも健康を維持されて、少しでも永く、営業してほしいなあ、と思う。
「ありがとうございました。今日は、これで失礼いたします」。
ちょっと寂しげな表情が浮かんだように思えた。
「すみません。連れを待たせているものですから。また、機会があったら来ます」と挨拶して出た。
外には、手押しポンプの井戸がぽつん。
その横の、コンクリートで叩いた広場は、かつてのローラースケート場だ。
「もっと居たい」と、こころを残しながらも、貞光劇場をあとにした。
多分、4月29日の観客動員数は一名。売り上げは1000円だったにちがいない。
【スライドショー】・・・・・・ぜひ、ご覧になってください。ほんと、今どきの映画館じゃ、ありません。存在自体が奇跡のような映画館です。
画像をクリックするとPicasa Webアルバムに飛びます。
【追記】
①48年も昔。入り口付近の、人の居ないすきをうかがって、無賃で侵入して映画を見たことがある。上映していたのは「月光仮面」。見つかるかもしれないとドキドキしながら見たものだから、筋書きも覚えていない。ふと、そのときのことを話ししようかなと思った。しかし、館主の真剣なまなざしを見つめていると、いらんこと言うと怒鳴られるかもしれない、と恐くて告白できなかった。
②今の私の「映画好き」の原点は貞光劇場にある。小さい頃、よく父に連れられて貞光劇場で映画を観た。旗本退屈男。水戸黄門。赤穂浪士・・。石原裕次郎、小林明。モスラ、ゴジラ・・。
③地元紙、徳島新聞による、貞光劇場の紹介記事は ここ。
隣県ではあるが、県庁所在地よりも、交通の便ははるかに、いい。
暑くて、疲れた。
徳島に帰ったとき、吉野川ハイウエイオアシスに立ち寄った。
ここの物産センターをのぞいていたら、いたんぽが売られていた。
イタドリのことを故郷では「いたんぽ」と呼んだ。イタドリを折ると「ポン」と音がする。そこから、きたのかもしれない。


子供の頃は、メジャーな食品であり、今の季節になると、わざわざ、山の中に採りに出かけたものである。
塩をつけて食べたり、漬物にしたり・・。
宮崎県では、食用にはあまりしない。
昔とちがって、見違えるほど食生活が「贅沢」になったので、見捨てられたのかなあ、と思っていた。
しかし、わが故郷では、イタドリが100円で売られていた。それも、吉野川SAでだ。これを見た瞬間、徳島を実感した。
そのあと、二階のレストランで昼食をとった。私は、本日のおすすめ料理「季節野菜のバスタ」を食べた。
すると、イタドリが輪切りにされて、入っていた。

とても、おいしく食べることができた。
郷里の街をぶらぶらと歩いていたら「一屋(かずや)」というお菓子屋さんが、営業していた。懐かしくて、店内に入った。
ウインドウには「一屋」名物の「きんつば」が並べられていた。
同行していた、同級生が店のおばさんに「コイツは昔ここに居たことがある。知っている?」とおばさんにたずねる。
おばさんは、私の顔をじーっとながめて「さあー??」と云う。
同級生が「白浦でわ」というと、おばさんは「ああ、白浦はん。ふーん、そうでか。お父さんには、箱書きを書いてもらったり、ほんと、お世話になった」と、父の話で盛り上がった。
「おいのこはんの菓子、まだ、あるん?」と私が聞くと「あるある、ほら、後ろの棚においてあるでわ」と指を差す。

まだ、あった。今も、あったのだ。
「おいのこ菓子」。子供の頃は、猪子に「お」がついたのかと思っていた。猪子さんがこしらえたお菓子と信じ込んでいたのだ。
子供の頃は、こういうものばかり食べていたのだ。
その近くには、袋にはいった「よめはん菓子」。ああ、これも、よく食べていた。

これらを買い込んできた。
そして、延岡で食べた。
「多分、洋菓子などで肥えた舌には、うまくないだろう」と、当時の味を思い出しながら口に運んだ。
予想したとおり、当時そのままの、ももそもそとした食感、甘みもほとんど感じられない。でも、いける。うまいではないか。
後味の時点で「甘さ」が出てくる。味わいが遅れて出てくる。口に入れた瞬間に甘さが、出てくる洋菓子とは、まるで正反対だ。。
私たちは、こういうものを食べながら、悪さをして大きくなったのだ。
本人から「東京に行かなくてはならないようになった」と、連絡が入った。
よかった。
本人が、いちばんうれしいかもしれないが、私も、うれしい。
腕のいい、頭の下がる職人は、まだ、居る。
型枠大工、建設機械オペレーター、一般土工・・・・・・。機会を見つけて、どしどし、推薦していきたい。
いい職人と話をすると、腕のいいのはもちろんだが、仕事に対する姿勢、考え方が、素晴しい。誰かに指示されているのではなく、「いい仕事をすること」をこころがけている。
同じ仕事をするのなら、いい仕事をしようや。それが、結局は自分にかえってくる。
型枠大工Uさんの言葉だ。
では。
沢山、書けそうでいて、書けないが、今日は、なんとか書いてみる。
♪うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川・・・・・と唄われるように、まずは「川」の現況について書いてみたい。
大川と小川。吉野川と貞光川。吉野川のことは「大川」とよんだ。貞光川は「大川」に対して「小川」とよんだ。
大川は、みんなからいつも畏敬される川だった。
しかし、その、大川の流れが、おどろくほど、なさけなくなっている。
以前は「大川は危ない、危険だ」とあまり近寄らない川。今は、それほどに恐くなくなっている。水が少ない。砂利が堆積しているように思える。
池田に造られた香川県への分水のための取水ダムのせいか。
竹林がなくなったせいか。
一方、貞光川の変貌も激しい。河川敷は砂利というより土砂になっていた。
草がぼうぼうと生い茂り、砂利が見えない。以前は、草は生えてなかった。
【45年前の河川敷】

【現在の河川敷】

河川敷に草が生い茂ることを「多自然型河川」という観念があるようだが、約50年前の河川敷と比べると、昔の河川のほうが「より、自然」という感じがする。どちらがよくてどちらがよくないかは明言できないが、私は、今の河川敷きは好きではない。
国破れて山河あり。山河はあるけれど、昔の川じゃあない。変貌した川である。
これでは、遊べない。いや、川原で遊ぼう、という子らもいない。
下流では、昔の子供たちが、魚釣りをしていた。

「何が釣れるんですか?」と聞くと・
「鮎が釣れるんでわだ」と徳島弁で答えてくれた。
鮎といえば、大川だったのに、この頃は、貞光川でも釣れるようだ。
鮎の稚魚を放流をしているせいかもしれない。