朝は、豆腐とワカメともやしの味噌汁、納豆と海苔、キムチ、たくわん、濃茶をいただいた。
雨は、昼過ぎには止んで夕方には晴れ間がさしてきた。
部屋の窓の外からは、コウロギの鳴き声が止むことなく続いている。
サッカー日本代表。とても、いい試合であった。惜しくもベスト8は逃したが、勝敗は時の運だ。
昨日の試合でも、ちょっと違っていたら、何回も得点するチャンスはあった。
南米のチーム相手に、結果的には「ほぼ互角」に戦ったことは、賞賛の値すると思った。
話は、変わる。
「風」という唄がある。
私たちの年代で「風」というと、なんといってもはしだのりひことシューベルツの「風」である。
風
♪人は誰もただ一人旅に出て
人は誰もふるさとをふりかえる
ちょっぴり悲しくて振り返っても
そこにはただ風が吹いているだけ
でも、もうひとつ「風」という歌がある。
高田渡さんの「風」だ。
風
Capo3 Play Am
Am G Em C E7
♪ほんとのことが いえたらな
目がみたことが いえたらな
思ったことを 便りに書けたらな
頭の上を 吹く風よ
・・ざっくり・・
あの人の目は何を 言おうとしていたのか
そんな 気持が うたにうたえたらな
やさしさが音に 表せたらな
そしたら僕は僕に なれるのにな
ほんとのことが いえたらな
目がみたことが いえたらな
思ったことを 便りに書けたらな
頭の上を 吹く風よ
これも、いい歌だ。
炊きたてのご飯、豆腐とワカメと高野豆腐ときのこの味噌汁、納豆と海苔、白菜キムチ、濃茶をいただいてきた。
ほぼ一日雨が降った。
今日は、中間検査が行われた。厳しくて、ポイントを徹底して追求してくる。言われることは、筋が通っている。
正論には、たちうちできない。
しかし、厳しい中に、温みもあって、厳しいけれど、嫌いにはなれない検査官であった。終わってみれば「いい検査」であった。
話は変わる。
「わかかりしころ」で変換すると、Google日本語入力では「わ罹りし頃」。Microsoft IMEでは「若かりし頃」と出てくる。
普段はグーグル日本語入力を利用しているが、時々、こういうのが出てくる。
・・で、若かりし頃に、観た「道」が、印象に残っていて、観たくなり、アマゾンで注文した。
あのジェルソミーナが出てくる、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」だ。徳島に居る頃、一回だけTVで観たことがあって、強く印象に残っている。なんで、印象に残っているのか、観たくなった。
しかし、観る時間があるのか。。。。。。。
今夜は、日本対パラグアイ。ベスト8には残るといいのになあ。
夕べは暑くて、今年はじめて室内エアコンのスイッチを入れた。
今日は、湿度も温度も高くて、現場に行くと、汗を顔からしたたらせて仕事をしていた。もう、熱中症に注意しないといけない。
久しぶりにコンクリートについて書く。
この頃は、止水型ひび割れ誘発目地の使用が目立つ。たしかに、これを使用すると、従来よりも「優れた結果」が出ることが多い。この製品を使用することにより、やっかいな温度ひび割れの発生位置を、高い確率でコントロールすることができる。
これはコンクリート技術の進歩だし、素晴らしいことだと思う。
しかし、問題点もある。ひび割れが制御できるからといって、闇雲に使うと、かえって構造的な問題が出てくる恐れがあると思う。
安易に、どこでもここでも好き勝手に「ひび割れ誘発目地」を設けると、設計で意図しない構造上の弱点が生まれる可能性が出てくる。
コンクリートのひび割れと構造的弱点、どちらを優先するか。初期に発生するコンクリートひび割れは、美観的な問題あるが補修をすればいい。しかし、構造的な瑕疵は、補修では対応できなくて補強、場合によっては、やり直しになることも考えられる。
本来は、コンクリートのひび割れについては、施工に先立つ設計段階で検討すべき事項だ。発注者が求める「施工性能」を明確にした上で設計すべきで、ひび割れ誘発目地も、合理的に設計で決定するのが筋だと思う。
また、コンクリートひび割れ誘発目地材は、高価だ。技術提案とか、創意工夫ではなく、業者だけにコスト負担はさせないように、していただきたいものである。
今朝は、炊きたてご飯といつものように具沢山の味噌汁、納豆と海苔、濃茶をいただいた。
一旦、社休で無人の会社に出た。少しばかり、することをして、早めに帰宅した。
帰り、橋の上を走行していたら、橋の下で、弊社の河川工事が稼働していた。
そういえば、税務調査が、長期間、来ていないなあ。いくら、なんでも本年あたりは来るものと思われる。
前回(4年前)には、職員から呼ばれて「裏金を作ってませんか」と唐突かつダイレクトに聞かれたことがある。失礼な人だなあと思いつつ「作っていません」とお答えしたことが記憶に残っている。
もっと昔、国税が入ったときは、あまりにも「脱税しているに違いない」みたいな追求や調査をされるので「ちょっと、よろしいでしょうか」と断ってこちらから質問させてもらったことがある。
「あのー、ちょっと、お伺いしますが、こういうお仕事をされておられて、ご自分でご自分を嫌いになりませんか? 私なら、きっとイヤになると思ったものですから」
担当官は、少し気色ばんだ顔つきで「そんなことはありません。仕事ですから」と答えられた。
そのあと、こころなしか、追求が厳しくなったように思う。
教訓1
税務調査官には、逆らってはならない。失礼な質問をされても「何事も修行だ」と冷静に誠実に対応することが大切。
注文していたドキュメンタリー映画「小三治」が送られてきた。

好きな落語家は沢山いるが「小三治」の大ファンである。名人の一人だと思う。
(落語協会会長に選ばれたとか・・)
名人と上手の境界は何か。
私の中では、同じ咄を何十回聴いても、感動させてくれるのが「名人」だと定義している。
11月には、名人の一人である「立川志の輔」の来延も予定されているとか。300人ぐらいの小ホールでの独演会になりそうで、これも楽しみである。
日本対デンマーク。快勝。リアルでは見てなくて、朝のTV番組で知った。まずはよかった。
今年こそ「胃カメラを飲まなければならない」と決意している。
きっかけは、私より一つ年上の方が、検診で胃カメラを飲んで食道がんが見つかり、食道全摘出の手術をすませて復活、そのことを見たからである。
その方によると、自覚症状等は全くなく、去年は胃カメラを飲んでなかったので飲んでみようという軽い気持ちで診てもらったら、初期の癌が見つかったというのである。
医者から言われたのは、自覚症状が出てからだったら、手術も大変で、回復までに時間も長くかかるということであったらしい。
ところで、私の親族は、男系に「癌」が多い。父も兄も、父の兄弟も癌になっている。遺伝子というのが作用するとするなら、私が罹患する確率は高い。
しかし、胃カメラだけは絶対に飲みたくない。と、思っていた。
というのは、幼い頃から嘔吐に対して一種の恐怖感があり、ゲーゲーしたくない。それだけが胃カメラを拒否している理由なのだ。ちなみに、最後に嘔吐したのは小学校三年生の頃で、そのあと、約半世紀近く一回も嘔吐はしていないし、嘔吐する危機に遭遇しても、我慢の上に辛抱を重ねてここまで来たのだもの。
とはいうものの、そう言ってもいられない。私も、自覚症状は全くないけれど、静かに進行しているのかもしれない。
歳も歳だし、この世を去るまでは元気で居たいし、ひなたが独り立ちするまでは見守ってやりたいし、今年中には、飲まなければなるまい、、、全身麻酔してもらおうかなあ。
では。
朝は、炊きたてご飯、豆腐と高野豆腐とカメと白菜と大根の味噌汁、ひきわり納豆に大量の青ネギ、海苔、イカの塩辛、たくわん漬け、濃茶をいただいた。
懐メロさえも、無くなりつつある。
青春時代に聞いた懐かしい私たちの唄は、聞きたいと思えば、当時の動画とともにいつでも好きなときに聞くことができる。それも高音質で。
とても便利だ。
昨日も、一昨日も、今日も、アイ・ジョージや飯田久彦やトム・ジョーンズあたりを聞いたりしていると、昔でなく「今」と変わらなくなってしまう。
懐メロのすぐあとにEXILEも聴くことができる。
懐メロは、忘れた頃に聞くから懐メロである。情報のあふれた今の時代、懐メロを懐メロとして聞くのかどうかの判断は、自分たち次第になっている。
ヘンな時代だ。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと白菜高野豆腐の味噌汁、ひきわり納豆と海苔、イカの塩辛、たくわん、濃茶をいただいた。
午後遅くになって雨がふりはじめ、今も音を立てて降っている。
大気も、なにもかも湿っぽい。梅雨、そのものである。
さきほどまで、吉田拓郎とセッションをしていた。
何を歌っていたかというと「ガンバラナイけどいいでしょう」である。
♪でも、がんばらないけどいいでしょう
私なりって事でいいでしょう
がんばらなくてもいいでしょ う
私なりのペースでも いいでしょう
心が歩くままでいいでしょう
そうでない 私でもいいでしょう
がんばれないけどいいでしょう
私なりって事でいいでしょう
歌詞とコードは ここ にある。
コード進行は、C Am F Em G7 Dm7 G と、割合に簡単なコードなので、自分だけに聞かせるだけなら、なんとかなる。そして、吉田拓郎と一緒にひきながら唄える。
「まだ人生は語らず」「お伽草子」「兄ちゃんが赤くなった」「制服」「夏休み」「ともだち」「せんこう花火」「イメージの歌」「親父の歌」「ペニーレインでバーボンを」「マークⅡ」「灰色の世界」・・・・・・。
思いつくままに、並べてみたが、この「ガンバラナイけどいいでしょう」も、いい。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと玉ねぎ高野豆腐の味噌汁、ひきわり納豆と海苔、イカの塩辛、たくわん、濃茶をいただいてきた。
もしも・・旧・延岡市内で口蹄疫感染の疑い症例が出た場合、弊社の近辺にはどのくらい牛や豚が飼われているか。はっきりしたことは分からないが、知る限りでは、規模の大きい畜舎が二つほどあって、牛は600頭ぐらい、豚も数百頭が飼われている。旧市内全域となると、何千頭もの牛、豚の数になると思われる。ひょっとしたら万を越えるのかもしれない。
延岡市内まで飛び火してくるのか。
隣の日向市、その向こうの都農町や川南町では、家畜の埋却処理は100%完了しているので、以前よりはリスクは少なくなっているような気もする。
しかし、宮崎市、西都市、都城の事例では、徹底的な防疫をしていたにも関わらず、予期せぬところに、飛び火し、感染経路も解明されていない。
それを思うと、まだまだ、どうなるかわからない。近い将来、口蹄疫の沈静化がおとずれたとしても、この緊張感と防疫対策は長期間にわたって続くものと思われるし、そうならざるを得ないだろう。
今日は「もしも・・」の場合の体制や人員を再確認した。
旧・北方、北川、北浦の旧町に感染疑いが出た場合は、感染拡大のリスク低減のため、現時点においては、旧・三町在住の建設会社が担当するようになっている。
発生したら24時間以内に埋却処分しなければならない。
実際の埋却処分の情報を聞いたり読んだりすると、「危険」「きたない」「きつい」の3Kそのもので、じつに大変そうだ。
今までの、水害や土砂崩れなどの自然災害対応や被災後の復旧などとは、全く違った性質の3Kである。死骸の処理などは、道路保全作業で、車に轢かれた「狸」の処理程度しか経験はない。
やる前に、いろいろと想像しても仕方ないし、想像し過ぎると、ついつい悲観的な想像ばかりになる。
やってみないと見えてこない。
やればわかる、ということだ。やるとなれば、はまってやるしかないのだ。
しかし、今回のような事例は、やるよりは「やらなくていい」ほうが、もちろん「いい」に決まっている。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと筍の味噌汁、納豆と海苔、イカの塩辛、濃茶を食した。
雨は午後から上がり、夕方は晴れた。
終日、家で、ぼんやりと過ごした。
宮崎ナンバーの車は、県外で忌避されるようになっている。
たいていの人たちは、できるだけ県外には行かないように自粛している。
行くと・・・・・
「帰って下さい」「宮崎ナンバーは遠慮願います」「駐車場には止めないで」と言われた人もあちこちと出ている。これらは風評被害の一種だと思う。しかし、感染ルートや感染源がはっきりしていない現状では、しかたないのかとも思う。
こういう場合は、規制する側を批判する前に、逆の立場になったら、どう思うかを想像して、意見を言えばいいと思う。
私などは、心が狭いのかも知れないが、自分たちが同じような立場になると、同じような感情を持つような気がする。
とにかく、早く沈静化するようになることが重要だ。
昨日は、宮崎市で陽性反応が出た。かなり神経質に防疫をしていたはずなのに出るので、油断はできない。
延岡は、今のところは、出ていない。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと玉ねぎ味噌汁、納豆と海苔、イカの塩辛、濃茶をいただいてきた。
午前中は、大分の県境まで、鉄道の案件の現場踏査に行ってきた。かっぱを着たが、蒸し暑くて、汗でびっしょりとなる。
貞光町、うる覚え。
貞光会館のこと。。。。
松尾神社の近く(道路を挟んで東北方向)に、貞光会館という映画館があった。
貞光劇場のライバル館として、都会的な雰囲気で映画を上映していた。当時としては、珍しいグリル(レストラン)も併設されていた。しかし、火災により、休館になり、いつか開館するかもしれないという期待をよそに廃館となってしまった映画館である。
営業期間は短かったと思う。多分、三、四年ぐらいで幕を閉じたのではないか。
小林旭の渡り鳥や三木のり平が主人公の「孫悟空」や三船敏郎の「日本誕生」をここで見た覚えがある。調べてみると、孫悟空や日本誕生は1959年4月、10月に東宝で制作されている。地方は、都市部で封切りされてから、一年ぐらい遅れて配給されるので、それを考慮すれば1960年前後が全盛期だったのだろう。
しかし、1961年7月に公開された東宝制作の「モスラ」は、貞光劇場で見た記憶があるので、やはり、1961~1962年前後の火事で休館になり、廃館になったものと思われる。
ここも二階建てで、貞光劇場は二階席で観たい場合は10円程度の特別料金を支払わねばならなかったが、貞光会館は二階に上がっても、料金は取らなかった。
子供心に、貞光会館は気前がいいと思ったりした。
入り口は、間口が広くとってあり、大きなガラス扉から中に入ると、右側に映画の券を購入するところがあった。
椅子は、貞光劇場のような長椅子ではなくて、固い木製の、背もたれだけが折りたたむ椅子であった。
スクリーンの手前には、畳敷きの広間があり、ステージで手品を観た記憶がうっすらと残っている。
残念ながら、私の手元には、貞光会館の写真はない。
どなたが、営業されていたのだろう。。。。。。良心的な都会風のしゃれた映画館であった。
・・・・・・以上は、私の記憶。。。。。
以下「昭和39年発行の貞光町史 p-894」には貞光会館のことが記述されていた。
(西暦になおすと1955~1962年)貞光会館。代表者は大垣保夫。昭和三十年、映画館として開館して、営業七年目の昭和三十七年十月、映写室から火を出し全焼はまぬがれたが、その時から休館し現在に至っている。
貞光劇場のことも書かれている。
創設は大正九年で藤本伝助、津司豊の共同経営であったが、太平洋戦争中は閉館、終戦後昭和二十一年より藤本伝助の単独経営となり現在に至っている。楽屋を入れると木造二階建て十七間に八間、一三六坪で(二階は別)入場者八百人という地方では大規模の劇場に属する。
演劇、映画を兼ね、東宝、東映、松竹、日活の四社と契約しており、今では美馬西部ただ一つの映画館である。開館以来四十七年という無声映画時代からの同館も、近来テレビ普及の影響をうけ経営も楽ではない。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメとふだん草の味噌汁、納豆と海苔、イカの塩辛、濃茶をいただいた。
愛宕山公園の清掃、わたしの部署の責任範囲は完了した。いつもなら3~4日かかっていたのが2日で終わった。残りは、営業や建築の部署が担当する。
午後、鉄道から電話が入り、支障木があるので撤去してほしいという依頼。必要と思われる機材を積んで現場へ。支障とまではなってなかったが、支障するリスクがあるので直ちに撤去した。
夜は、延岡市出身のシンガーソングライター小田ちはるさんの、口蹄疫チャリティライブに「主催者」として出席。

主催者といっても、私など、名ばかりで、まったく何もしていない。ほとんど、のべおかんの広瀬さんが、企画、準備、実施までやられた。今回は、音響担当として、フォークソング牧師の田崎さんから全面的協力をしていただいた。
しかし、突然、ライブの前に代表挨拶をふられ、しどろもどろで挨拶をすませた・・・・・・。^^;
ご本人の許可をいただいたので、後日、ユーチューブに投稿させていただく。
小田ちはるさんは、歌唱力のしっかりした、素晴らしい歌声で、しかも30名程度のライブだったので、大迫力で、ひさしぶりに堪能させてもらった。
チャリティライブのために、ビアノ演奏者と一緒にわざわざ東京から帰郷して、無料で歌ってくれたのだ。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと筍の味噌汁、きゅうりのぬか漬け、海苔、イカの塩辛、キムチ、昨夜の残りのケンタッキーフライドチキン、濃茶をいただいた。
昨日は、口蹄疫発症の報告はなかったみたいだ。発症のないまま、終息まで行かないかな。
今日から、愛宕山公園の除草、芝刈り、清掃作業にとりかかった。午前中から蒸し暑くて、熱中症が危惧されるような暑さだった。
今回は、刈り取った草類の集積・積み込みを小型バックホウのバケットをフォークに付け替えてみた。すると、仕事が早くなり、従来の二倍ぐらいの速度で仕事が驚異的に進む。さすが、機械力だ。

しかし、なんで、今まで、小型バックホウを思いつかなかったのだろう。土木屋ともあろうものが・・・。
愛宕山は、健康のための登山する人が多い。そういった方々から「ありがとうございます」「きれいになった」と言われ、こちらも、うれしい思いがした。
予定では、明日から東京に行くはずであった。ある、協会の理事会・総会と勉強会に出るためにだ。しかし、口蹄疫が隣の市まで飛び火してきて、延岡でも同様の事態になるかもしれない。そうなると、我々は「出動」して、迅速に埋設処分を行わねばならないので、勉強会会場での「口蹄疫募金」のことをお願いしてキャンセルさせてもらった。
緊急の場合は、留守にしたくない。私一人がいなくても、大丈夫なのもわかっているが、何か起きた場合は、やはり、現場に居たい。
明日は晴天の予報。
明日も、清掃作業に行く。
炊きたてご飯、豆腐とワカメと玉ねぎ、きゅうりのぬか漬け、海苔、濃茶。
今日から、愛宕山公園の清掃を予定していたが、雨のため延期。
午前中は、分会(15社)が集まり、口蹄疫防除支援についての打ち合わせ。我々が担当するのは、殺処分された家畜を運んで埋設する作業になる予定だ。
一口に、殺処分、埋設というが、実際にやった人から話を聞くと、実情は、大変だ。
機械、資機材、防護服などは、公的機関で準備。我々は、マンパワーのみの奉仕となる。
市内にも、かなりの数の牛や豚がいる。
口蹄疫終息まで「予定」であり続ければいいのだが・・。
とにかく、市内へのウイルス拡大を阻止すること重要だ。延岡市内に入ると、お隣は大分県だ。
昨日の酸性雨の続き。
酸性雨のデータ。 クリックすると拡大。

気象庁では、人為的な影響が比較的少ない地点と考えられる、岩手県大船渡市綾里と東京都小笠原村南鳥島で、降水のpH(水素イオン濃度)を測定していま す。2007年の降水の年平均のpHは、綾里でpH4.6、南鳥島でpH5.4でした。南鳥島の酸性度が綾里より弱いのは、人為的な影響がより少ないためです。
口蹄疫ウイルスは、ph5~6で死滅するといわれているが・・・・・・・・・。
明日は、晴れの見込み。
公園の清掃をしよう。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと大根の味噌汁、納豆と海苔、大根おろし、韓国の肉の漬物(名前忘れたので)、濃茶をいただいた。
明日は、口蹄疫発生時の対応や体制について同業他社さんとの打ち合わせを行うことにしている。我々、地場の建設会が行うのは、死んだ牛や豚の埋設処分になるだろう。
処分は、迅速でないといけないので、24時間で行うことになるだろう。
口蹄疫ウイルスによる感染が、今以上に拡大しないように、早く、終息になるように祈るばかりだ。
ウイルスは、ph濃度6~7の中性では生き続けるが、弱酸性やアルカリ環境下では二秒で死滅するらしい。
明日は雨の予報。もし、雨が、酸性雨ならば、ウイルスの消毒の一助になるかもしれない、などと淡い期待も抱いたりして・・・・・・・・。
昨日のブログ。勘違いがあった。読者の方からご指摘をいただいた。ありがとうございます。
今の、県立貞光工業高等学校の正門前をまっすぐにいくと火葬場がある。火葬場を右に見て・・
・・・ではなくて、火葬場は、もっと東側に位置していたというご指摘。
そういえば、そうだった。たしかに、工業高校の隣は、建設省があり、その前に火葬場はなかった。
追記 HONDA 60’S CLUB をリンクさせてもらった。無断で・・。
休日、恒例の白粥を食べたところだ。
口蹄疫の移動制限区域の北限の境は、市内の旭ヶ丘まで来ている。近所にある豚肉専門店の養豚場では、そのことを考えると夜が寝られないそうだ。
市でも、すでに対策本部を設置していて、危機管理体制を強化しているようだ。
いろいろな催し物、イベントが中止や延期になり、公共施設の閉鎖や休館なども出てきている。
今日は、貞光町のことを書く。
「喜来の渡し」
私の故郷、貞光町の北側には日本で六番目に長い『吉野川』が流れている。子供の頃「大川(吉野川)は怖い川」というイメージがあり、私たちは貞光川で泳ぎ、大川で泳ぐ者は、少なかった。
吉野川には、対岸の美馬町喜来と貞光の間に「喜来の渡し」があった。

今の、県立貞光工業高等学校の正門前をまっすぐにいくと火葬場がある。火葬場を右に見て、鬱蒼と茂った竹林の中の道を通り抜けると吉野川の河川敷に出る。渡船場までは、歩きやすいように大きな砂利は取り除けられ、踏み固め道があった。

美馬町の親戚に行くために、父から連れられて、何回か乗船したことがある。船に乗ると、すぐ上流に美馬橋の橋脚だけがポツンポツンと立っていたのを覚えている。
喜来の渡しは、昭和三十三年美馬橋の開通とともに廃止された。六歳の頃である。
以下によると、船頭さんは県の職員だったようである。
美馬町郡里喜来と貞光町を結んでいた。現在の美馬橋の下流にあった。
明治の統計書に記載がある。大正4年(1915)郡里村営、昭和18年(1943)県営。
昭和33年(1958)美馬橋の架橋で廃止。
・・・・・・・・・「吉野川の渡し船」より
喜来の渡しは貞光町史p.967に詳述されている。写真は、貞光町史から引用した。
貞光・美馬両町民念願の美馬橋が開通すると、美馬町に行く交通手段は美馬西部交通の乗合バスに変わった。バスは貞光駅前から出た。行き先は「石仏」。「石仏」には、まだ、一回も行ったことはなくて、今も、どんなところか知りたいミステリーの場所だ。
私たちは、美馬町の途中の「一番坂」バス停で降車し親類の家まで歩いた。
石仏行きのバスは、美馬町の狭い街並みを走るため、向こうから車が来ると、車掌さんが降りて「ピーピー」と笛を吹きながらバック誘導したり、窓から店の軒に手が届くような距離を、神業と思われるようなハンドル操作でゆっくりと進んでいた。
一番坂は、もっと広くて長いと思っていたら、こんなに狭くて短い坂だったのだ。

炊きたてご飯、豆腐ワカメ玉ねぎの味噌汁、いくら醤油漬け、納豆と海苔、濃茶をいただいて直接現場に向かった。
口蹄疫。すぐそこまで来ている。市内の一部も移動制限範囲に入った。
もしかしたら、耳川で止まり、そのまま終息するかもしれないという気持ちもあったが、ついに、近づいてきた。
午後からは、口蹄疫対応のことで情報を収集。空いている機械や人を調査。
来週あたりは、バタバタになる予感がする。
なので、来週の17日からの東京出張は、キャンセルすることに決めた。
技術士の会のMLから、引用。
ウイルスはPH6~7の中性で生き続けるので、弱アルカリか弱酸性なら2秒で死滅するそうです。だから、石灰や炭酸ソーダ 液、酢が効果を発揮しています。
この頃は、自分たちの話題も「口蹄疫」のことが多い。
雑談では「もう、消毒剤の空中散布しかないのではないだろうか」という話が出たりする。
現に、えびの市では、食酢の希釈液をヘリコプターで空中散布した実績がある。そのことが、功を奏したのかどうかは不明だが、他地区と違って、終息を宣言が出ている。
通行車両の消毒や家畜舎の消毒、移動制限だけでは、蔓延を阻止できないようになっている。
ウイルスは、メインは人の移動だと思うが、風で運ばれたり、虫、鳥、野生の生物、によっても、移動するらしい。
素人の考えだが、やはり、空中散布しかないのではないだろうか。環境に支障しない「食酢希釈液」や「EM菌」をラジコンヘリや場合によっては普通のヘリで空中で散布することしかないように思える。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと??の味噌汁、納豆と海苔、烏賊の塩辛、たくわん、濃茶をいただいてきた。
都城での口蹄疫感染の疑い、陽性反応が出たという。飛び地感染。
収束に向かいつつあるのかなと思っていたのに・・・・・。
昼前に、日向でも口蹄疫の疑いのある牛が出た、という噂を聞いた。噂が本当だとしたら、おおごとだと思って、午後から、ほかの用事もあったので、役所に行った。
もし、噂が本当なら、バタバタしているはずだが、みんな、普段どおりだったので、単なる噂かもしれないと思った。
ところが、夕方のニュースで、日向市で口蹄疫の疑いが出たという情報。
本当だったのだ。
日向も、もちろん都城も、農家の人たちは外出も控えて、徹底的に消毒を行うなど、神経質にやってきているのに、なんで、広がるのだろう。
バンデミック。
早く、収束してほしい。
いよいよ、ついに、延岡の、すぐそこまで来た。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと白菜の味噌汁、海苔、大根おろし、たくわん漬け、濃茶をいただいた。納豆は、切らしていたのか食卓には出てこなかった。
今日は、大分県境から、鉄道の現場を踏査しながら南下してきた。
この鉄橋は、大正10年頃に施工。今も現役で供用している。
昔の職人は「いい仕事」をしている。

施工中の写真

「延岡と日豊線」から、無断で拝借。
橋梁を点検しながら渡る途中で列車に三回ほど遭遇。時速80キロぐらいで轟音とともに疾走してくる。慣れない者は、思わず、吸い込まれそうになるかもしれない。
帰りも渡る。

昼は、近くで「うな重」を食べた。
この前、有名なうなぎの店、西都の入船で食べた印象が残っていたせいか、口に入れた途端「うっ」と感じ、うな重にしたことを 後悔してしまった。
しかし、いつから、そんなに贅沢になったのか。そう思ったけれど、うまいものはうまいし、そうでないものはそうでない、と開き直る。
チキン南蛮にでもすればよかった。
意味はないが、 本棚の一角を撮影。

コンクリート関係、風の谷のナウシカ、藤沢周平、中沢新一、地質関係の本、夢枕獏、延岡郷土史年代表、柳家小三治、田坂広志、うどん関係の本など、系統も何もあったものではない、のが並ぶ。私の頭の中は、こんなに、ごちゃごちゃしているようである。
では。
日々、更新が目標なのなものですから。
そして、昨日、更新したつもりが下書きモードになっていて、アップされていませんでした。。。
午前5時35分起床。天候は雨。室内温度21度、外気温19度の朝だ。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと玉ねぎの味噌汁、納豆と青ネギと海苔、うりの味噌漬け、濃茶をいただいた。
この頃、明け方近くになって、よく、浅い夢を見ることが多い。
これは夢だ、起きたら、いつものようにすぐに忘れてしまうと意識しながら、見ている。
いつも、内容は記憶していない。今朝の夢は、あまり気分のよくない夢であった。
といっても、明日の夢はどんなのを見るのか、楽しみだなあ。。。。。
では、寝ます。
炊きたてご飯、豆腐とワカメと大根の味噌汁、納豆と海苔、うりの味噌漬け、濃茶をいただいた。
何がうまい、といっても炊きたてのご飯より、うまいものはあまりない。
ひなたは、それをおにぎりしてもらって食べていた。
横で見ながら「いちばん、うまい食べ方だなあ」と私。
「贅沢な食べ方だね」と家人。
昔は「銀飯」ともいったが、まさに、米粒がぴかぴかと光沢を発している。
今は、毎日、白米を食べていて、うまいのだから、いつも麦飯を食べいて、ハレの日だけ、白飯を、羽釜で炊いて食べた何十年か前の炊きたてご飯は、いまよりも、うまかったのだろうなあ。
今日は、何も書くことが思い当たらない。
では。
河川工事の現場に行ってきた。フルに動いていた。
NHKのTVドラマ「ゲゲゲの女房」に、電気代を支払わないと電気を止められるというのがあった。
このドラマは、面白いとか面白くないと関係なく、とにかく、なつかしい気分にさせてくれる。
おさない頃、我が家にも「電気を止めます」の通知葉書が届いていたのを何回か見た記憶がある。結局は、電気が止められることは無かったのだが「もうちょっとで・・」というのは何回かあったようだ。
借金取りも時々来ていたが、母がうまく返していた。一回だけ、何か特別な事情があったのか、母が逆ギレ状態で借金取りを怒鳴りつけて退散させた場面を目撃したことがある。
今から思うと、父や母はお金のことで苦労していたと思う。しかし、子供には、そうは見せなかったし、反対に、何不自由なく育ててくれたと思っている。
小遣いも、時々はくれたし、自分で工夫して手に入れたりもしていた。金属を集めてボロ屋さんに持ち込むと、天秤秤で測り、子供の小遣い程度のお金がもらえた。
父は、お金はなくとも、平然自若、天衣無縫、清廉潔白の人であった。そして、己の姿勢や考えを、けっして子供に強要しようとはしなかった。ほとんど、私の好きなようにさせてくれた。
母からは、何回となく小言を言われもしたが、私をとても大切にしてくれる母であった。
私は、父の後ろ姿を見て父の生きかたに憧れ、母からは溺愛といってよいほど守られて育ち、今があるのだ。
昼休み「ゲゲゲの女房」を見ながら、そう思った。
明日は、家人と一緒に、告別式に出席する。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと大根(?)の味噌汁、納豆と海苔、白菜キムチ、濃茶をいただいてきた。
ルーツ 3 は、今日は書かない。
「秘すれば花」
死語になりつつある。特に建設業ではそうだ。
このごろになると、地元夕刊紙に、地元建設業の道路清掃、河川清掃、除草などのボランティア記事が連日掲載されるようになる。それを見ると、割り切れぬ思いがする。
総合評価方式で「地域貢献」として評価点をもらうために「にわかボランティア活動」行う。そして、地元紙に掲載してもらい、そのコピーを持って「地域貢献の証」として発注機関に評価してもらうのだ。
これらは「貢献」とは名のみで「商取引」みたいなものに変質している。公的機関からアメを見せつけられて半強制的に「奉仕活動」をするように誘導されているようだ。
こういった行為には、感謝の気持ちも生まれないし「やった」という自己満足感もない。評価点が上がるのだけれど、みんながやれば、みんな同じ評価なので、差異はつかなくなる。しかし、やらないと加点されないので、仕事が取りにくくなるのだ。
いつも思うが、こういう評価はいかがなものかなあと思う。
評価されても、されなくても、する者はする。
追記
知人の知り合いが、この前の日曜日、久住高原に行ったら、近寄ってきた地元の人から「遠慮してほしい」と言われたそうだ。
宮崎ナンバーの車は、大分の草原で放牧をされている方にとっては、鬼門のようにみえるのだろう。
地元の人たちの気持ちはよくわかる。自分たちが同じ立場なら、そう思えるだろう。
宮崎ナンバーをつけて、畜産に縁のあるところには、終息するまでは、控えた方がいいと、素直に思う。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと大根の味噌汁、白菜キムチ、納豆と海苔、濃茶をいただいた。
日中は、時折、強い雨が降ったり、晴れたりと、忙しい天候であった。
昨日の続き。。。。。。。
母は、白浦亀五郎の長女として、高知市唐人町に生まれた。生まれてから数年間は高知で育ち、その後、亀五郎の本拠地である徳島県の貞光町に引き取られてきたのである。
母を産んだひと、つまり私の祖母は、高知市帯屋町の商家の娘であったらしい。しかし、何らかの事情で、亀五郎さんと別れ、弟や妹を連れて大阪に出ていき、母一人だけが乳母に育てられた。
この乳母が本当の母親みたいに育ててくれたそうだ。亀五郎爺さんが財産をすべて失い、亡くなった後、継母と母だけで、残されたで田畑で小作人の人たちから農作物を持ってきてもらったり、骨董絵画を切り売りして生活していたようだ。
その後、農地開放の嵐により、男手の居ない母の家は、不便な山の狭い畑以外の、ほとんどの農地を取り上げられ、生活に苦しんだようだ。
農地開放政策というのは、地主から土地を取り上げて小作人に与えるという政策で、日本農業の発展に寄与したのかも知れないが、反対に、生活苦に追われるようにになった旧地主の者も少なからず居たと思われる。
「人の目のとどかぬところで弱い者が犠牲にされていっているのである」(宮本常一『民俗学の旅』)
私の母の話に戻る。
私の母は、幼い頃の水難事故がもとで、耳が完全に聞こえなかった。川で泳いでいておぼれたのが原因で、耳を悪くしたといっていた。耳を治すために、京都や大阪の大学病院にしばらく入院して治療をしたのだが、治らないままであった。
でも、生まれながらの聴覚障害者ではなかったので、言葉は健常者と同じように話しをすることができた。
母の、第三者とのコミュニケーションは、相手の口を見て、つまり読唇術で相手の話を理解することと、手の甲に文字を書いてもらうことの二つであった。
私は、母と話しをする場合は、文字を知らなくてはならないので、幼稚園の頃には「海賊船」などという文字が読めたり書けたりしていた。(今は、とても書けないが・・)
母は、耳が悪いせいで、あまり外出はしなかった。家では、町の公民館から本を借りてきていつもむさぼるように読んでいた。そのせいで、目も悪くなり、極度の近視であったようだ。
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと筍の味噌汁、納豆と海苔、キムチ、濃茶をいただいてきた。今日は、終日、雨が降った。時折、激しく降ったりして、今も降り続いている。
私は、母のことも父のことも、知っているようで、実はあまり知らない。私が物心ついてからの父と母のことは語れるが、それ以前のことはあまり語れない。
子供の頃に両親から聞いた話の断片しかない。そういった、断片をつなぎ合わせて、父母のことを書いて見たい。
私の旧姓は「白浦(しらうら)」という。
私の母の親父のことから書いてみたい。つまり、私の爺さんである。「ひなた」にとってはご先祖様である。
私は、父母のことをあまり知らないのだから、爺さんのことは、会ったこともないし、もっと知らない。父母から聞いたことも、ごくわずかだ。
ただ、幸いなことに「貞光町史」に、祖父、曽祖父のことが記載されていたので、さらにご先祖様まで、少しだけ辿ることができる。
爺さんの名前は「亀五郎」。この人は四国吉野川の水運をはじめて開拓した人だったという。
以下、貞光町史より引用
白浦栄三郎と長男亀五郎親子が高知県に進出して「寒峰」その他の土佐材を伐採して、池田まで流送しそれから筏に組んで徳島に運送した。吉野川流送の草分けであるが、出水のため何年も費やして運んできた材木を全部海へ流失したこともあった。川を利用する運送は無事にゆけば賃金も安く随分儲かったが、大出水-流失の憂き目を見た日には、虻鉢取らずになる。いわば、乗るか反るかの「大ばくち」だった。白浦らの木材事業は、稼ぐにも仕事の少なかった当時の端山、一宇、八千代村の男手を使ったから、山村の生活に相当な潤いをもたらした。(P.847からP.848より引用)
ついでに、曽祖父のことも同じ町史に出ている。
白浦栄三郎(幼名嘉蔵)天保10年(1839)11月20日生。大正8年3月29日没。彼は、定満谷口の城主山倭家長吉の末裔阿波介金郷の後孫である。その経歴概要は、農業を主とし、明治初年には材木商となり、阿波の国と土佐の国を駆け回り、吉野川の材木の流送の始祖ともいえる人である。明治維新に際し、東端山人民総代となり、維新百般の用度を勤務する。明治9年地租改正により、東端山の地主総代となり、改正事務を執りこれを完成した。明治13年小学校を自費で建築して、これを白浦小学校といった(今の皆瀬小学校)。こうした功労によって朝廷から御紋付の三つ組み木杯を賜る。
(御紋付の三つ組み木杯など、見たこともない。ひょっとしたら母屋に伝わっているのかもしれない。)
爺さんのほうは、和服を着て山高帽をかぶっている写真が残っている。幼い頃、母から「これが、お前の爺さんだ」というふうに教えられた。
父親と一緒に一代で材木問屋を興し、お金持ちになり、そして破産、という波乱万丈の人生を送った人だ。潰れたのは、台風などにより、吉野川に浮かべていた材木を何回も流されたのが、引き金になったようだ。
この爺さん、趣味で「うどん店」もやっていたとかで、幼い頃の我が家には、麺棒、岡持ち、打ち台がそろって残っていた。麺棒を引っ張りだしてきては、チャンバラで遊んだものだ。
爺さんは、懐に、ドイツ製の22口径リボルバー五連発をしのばせ、手には仕込み杖のステッキをついて、あちこちと飛び歩いていたそうだ。母が生まれたのは明治40 年の高知なので、爺さんは明治末期から大正はじめにかけて行動していたものと思われる。