私の曾祖父(母方)は貞光町史の中で「天保10年(1839)11月20日生。大正8年(1919)3月29日没。彼は、定満谷口の城主山倭家長吉の末裔阿波介金郷の後孫である。後略・・」と記されている。
それで「阿波介金郷」を調べてみた。
この人は、平重盛に重用され、その孫である山倭屋重成は「阿波の三郎」と呼ばれ、衛士として安徳天皇に仕え、屋島の戦いで戦死したとか。(1185年3月)
その子は阿波守護・小笠原長経に従い、そのまた子孫である彦兵衛は天正5(1577)年 12月5日、貞光城主・小笠原長定に殺害され、居城谷口城を追われた。
孫の重愛・重定らは流浪し、岩倉城主・三好康俊に仕え、その後、谷口城を回復。のちに、土佐から長宗我部元親が侵攻してくると所領を差し出して恭順した。
天正13(1585)年には、長宗我部親吉が、豊臣軍 の侵攻に押されて土佐へ撤退する途中、重愛・重定らは親吉を襲撃し、殲滅した。この功績を賞されて定満谷の政所に任じられたという。
その子孫が、白浦に移ったといわれている。
私の旧姓は「白浦」である。徳島県に1家、広島県に1家、京都にも1家、宮崎県に2家・・は知っているが、全国的には、少ない「姓」のひとつだろう。
白浦(しらうら)という姓は、どこからきたのだろう。白浦の「浦」は「海」を連想させるが、近辺に海などは関係するようなところは全く見当たらない。
ご先祖様が「白浦」と名乗ったのはどうしてか。なぜ「白浦」なのだろう。
今は、地名として「白村」があるが、白浦と白村の関連はなんなのか。白浦が先か白村が先か。
本当のところは、わからない。
でも、こうして、たずねることができることは、ありがたいことだと思う。
二つめにかかるから
「ありあけの カンテラの灯に病む母の あをき額よ もう夜の明けむ」
「病む母」とは、名前も顔も知らないが私の祖母だ。血(ジーン、ミーム)のつながりは孫のひなたにも、私の兄の孫にも引き継がれていることを思うと不思議な気持ちになる。
「雪しずく」より
「渓ふかき 朱塗りの橋に ふる雪の かそかなるおと ききとめにけり」
朱塗りの橋とは木屋平側からの剱山登山口に架かる「垢離取橋」のことだ。
貞光口、見ノ越方面の方が交通の便がよいので、貞光口が剱山の玄関口とよばれているが、古来は、木屋平川上にある垢離取橋が剱山への表玄関とされていた。私が、はじめて木屋平側から登った頃には、屋根のついた朱塗りの木橋があった。それが「垢離取橋」だ。
橋の下の谷川の冷たい水につかりながら「六根清浄」を称え「垢離」を落とし、体を清めてから入山するのが修験者の習わしだと父から聞いたことがある。
垢離取橋から富士の池宮。「胸突き八丁」とよばれる急坂を登り追分。一の森・二の森を経て山頂に向かう。
剱山は、平家伝説だけでなく、石鎚山と同じ山岳信仰の山で、修験者の修行道場でもあったようだ。
父が住んで居た家は「垢離取橋」とそう距離は離れていないので、このような歌が詠まれたのだろう。
今は、昔の垢離取橋は大水で流失しコンクリート橋に架け替えられ、地名も「垢離取」となっている。垢離取に「橋」と名がつけば朱塗りでなければならない。そこで「橋」がとれて「垢離取」という地名になったのかもしれない、などと勝手に想像している。
「帝人事件 かまびすしきに 清貧の藤井蔵相は みまかりにけり」
当時の政界を揺るがした汚職事件と、地元出身の清貧の政治家を対称的に詠んだのだろう。
藤井蔵相をWikで検索してみた。藤井蔵相とは、徳島県麻植郡牛島村出身の政治家。高橋是清に懇願されて蔵相を引き受けた人だ。(藤井裕久とは関係ない。)
自分は、これまで、徳島出身の藤井という大蔵大臣がいたことは知らなかった。
徳島県には、三木武夫をはじめ後藤田正晴や仙谷由人などが著名だが、清貧を貫きとおした政治家が居たのだ。
今の政治家に爪の垢を煎じて飲ましたい。
藤井蔵相は1935年に50歳の若さで死去している。
この頃になって、本棚から手元に場所を移して、時々、断片的に読んでいるのだが、これが、私にとっては、おもしろい。
父・母の全く知らない若い頃のことが出ていたりする。
例えば、こういうのがある。
父が、木屋平の山奥から下りて貞光町に住む母をたずねたときの歌だ。
「大雨にけむれる谷を曲がり曲がり自動車(くるま)は町をまっしぐらなり」
これは、木屋平村の山奥から、貞光町に行くときの車中の父だと思う。この、まっしぐら、というのがどことなくおかしい。当時、穴吹町と木屋平村には、すでに乗合バスが走っていたのかもしれない。穴吹駅で汽車に乗り換え貞光駅で降りる。およそ半日がかりの工程だ。
「ただ一度通りし露路のほのぐらし塀ごしに見ゆ二階の障子」
多分、天神屋食堂と美馬生必の間の天神小路の薄暗い細道のことだ。塀も、障子もあった。どうやら、父は二度目の訪問らしい。
母の住む家に着く。
「戸をすこしあけて昼寝(ひるい)のひとなれや起こさずにしばし見まもりて佇つ」
昼寝をしているのは、多分、母だ。訪れて「こんにちは」と挨拶しても、聞こえなくて、佇んでいる父の姿が想像できる。畳を「どんどん」と叩いて起こしたのだろうか。
「耳しひのひとの声音は幼にて弾けるごとく笑ふことあり」
「耳しひ」とは聴覚障害者のこと。つまり、これが、私の母である。自分の声さえ聞こえない母の、弾けるように笑うは、いい。
別の頁には、貞光から木屋平に帰るときのものもある。
「母と娘がふたり起き臥す家なれや庭踏みし時 鶏(かけろ)が鳴けり」
短歌では、鶏のことを「かけろ」ともいうらしい。鶏を飼っていたようだ。娘とは、私の母。
「母と娘がわび住む家やそこばくの秋蚕(あきご)ねむれり 湯が沸いており」
秋蚕→晩夏から秋にかけて飼育するカイコ
我が家は、元々、養蚕のために建てられて家だと聞いたことがある。母と娘が、現金収入として蚕を養っていたのか。
「狭き露地を耳聞かぬ娘に送られて往来(ゆきき)のしげき街道へ出づ」
狭い露路とは、多分、この露地だと思う。人一人がやって通れる程度ではあるが、我が家から一宇街道に出るには、最短で出られることのできる露路だ。自分も、よく、この露路を通っていた。
