河川増水、崩土などが気になったが、小康状態になったので、家人と二人で「黒部の太陽」を観に行った。ノーカット版3時間15分の超大作だ。
文化センター大ホール(1300人収容)は、ほぼ満員で、客層は、敬老会みたいで、私の世代より上の団塊の世代以上の人たちが多く、石原裕次郎や三船敏郎に代表される、高度経済成長時代を支えたこられた人たちが大挙してスクリーンを見つめていた。
映画自体は、約50年以上も前に制作されたものだが、破砕帯崩壊のシーンもCGなどない時代なのに、あの迫力は予想を越えたものだった。単なる「トンネル記録映画」だけにとどまることもなくストーリーもあり、今でも「いい映画」だと思った。
最後にスクリーンの端っこに「終」のテロップが流れると、自然発生的に観客の拍手が打ち鳴らされた。映画を観終わっての拍手は、小学校のとき以来なので、おもしろかった。
先日の事。
大雨で崩れた崩土取り除きの現場から帰社して、長靴を脱いだら、左足が血で真っ赤になっていた。
「なんだろう」と思ったら見たら、出血した場所は径が2mm程度の小さい傷口でほかにはどこも傷口らしいものはなかった。傷口をティッシュで拭きとっても、押さえても、なかなか血が止まらない。しかたないので大きめのリバデープで止血した。
何だろう。
私の想像はこうだ。
多分、山蛭(やまひる)から噛まれたのだ。蛭は、清浄な場所に生息していて山の動物の血を吸って生きているとか。
下に人が居るのを感知した蛭が上の木々の枝などから「ぽとん」「ぽとん」と落ちてきたのだ。そのまま運良く襟首あたりに落ちてくるのもいるが、足元に落ちてきた蛭が、近くにあった長靴を這い上り内部に侵入して噛み付いたのが、たまたま「私」だったのだと思う。
蛭は、噛み付く前、相手に気取られないように麻酔を施してから血を吸うらしい。普通、血は、空気に触れると凝固するのだが、蛭は血液をさらさらにする体液を持っているので、傷口が小さくても、なかなか、血が止まらないのだ。
「蛭」を研究すると血液サラサラの薬ができるかもしれない・・。
蛭で思い出すのは、子供の頃は家の前にあった谷で、蛭を採取して「延縄」のエサにしたこととや、ちょっとだけ読んだ「高野聖」での、聖が深い山中に分け入ったときに、蛭が「ぽた」「ぽた」と落下してくる恐ろしい情景だ。
私の場合は「高野聖」の旅僧みたいに恐ろしいことなど少しも感じることはなかった。
しかし、目も鼻もない蛭の「生物(獲物)の感知能力、麻酔能力、血液サラサラ能力」などの吸血メカニズムは、生きながらえるために獲得した進化能力だと思うが「生物」というのは、不思議でしぶといなあと思う。
昨日は、台風5号崩れの温帯低気圧と南九州から動こうとしない梅雨前線の影響で終日雨が降り続いた。
鉄道は、前日の土砂流入トラブルの関係で、敏感に反応し、弊社の社員たちも現地で待機ということになった。初夏とはいうものの、カッパを着込んでの豪雨の中に佇んで待機するというのは、苦行のひとつだと思う。
午後7時頃になり、雨も小やみになり、撤収ということになった。
お疲れ様、である。
私は、週刊誌はほとんど読まない。でも、朝刊の週刊誌の記事広告には目を通している。政治、スポーツ、芸能のことがセンセーショナル的に書かれているが、この頃は、そのなかに必ずといってよいほど、記事と記事の間に挟まれるように「ガン」の事が書かれている。
今や国民に二人に一人は「ガン」にかかり、三人の内の一人は「ガン」でこの世を去るという現実が週刊誌の広告を眺めてもわかるような気がする。
「ガン」と「結核」は全く違うが、死ぬまでの時間(余裕)が与えられているという一面が共通していて、何十年も前に流行った「結核」を思い出す。「ガン」も研究が進むと「結核」みたいに特効薬が見つかるのだろうか・・・。
運不運もあるが、早期に見つけることができたら、手術も軽くて済むし、あの抗がん剤も使わなくてもよいし、再発の可能性もぐんと減る。
40~50代になったら、ちょっとした体の変化や、詳細な検診など,十分に気を付けておいたほうがいい。
でも、大雨が降るとなれば、キャンセルして待機するかもしれない。まあ、明け方近くから降りも激しくなるだろうから、そのあとのことだ。
世界遺産でなく「世間遺産」というフレーズを初めて聞いた。
なかなか、面白いネーミングだ。
仰々しい「世界遺産」などより、身近にある「世間遺産」のほうが、いい。
「世間遺産」は、個人の思い入れや趣向によって違うだろうし、もし、募集すれば、沢山の、それぞれ違った「世間遺産」候補が集まるように思える。
貞光町なら「町内のそこかしこに建てられているお堂の数々」「二層うだつの町並み」「昭和9年に建てられた貞光劇場」「大南町の百間長屋」「吉良の発電所」・・数え上げればまだまだ続く・・いや、町内全域が「世間遺産」かもしれない。
延岡市なら、なんなのだろう。
「世間遺産」を意識して周囲を観察したら、次の世代に大切にしてもらいたい「遺産」がいっぱい出てくるのだろうと思う。
小沢一郎という方は好きではない。
しかし、今回の、増税に関する反対意見は、うなづけるものがある。福祉、年金保険、官民格差などの結論を先延ばしにして、増税だけを先行して決めてしまうのは、如何なものかと思う。
老人福祉、年金・保険、官民格差、議員定数、消費税等についての議論を尽くし、国民の大多数から理解を得てから、消費税増額に移るというのならわからないでもない。
保育所や幼稚園を潰して、その跡に老人介護施設を建てる。
私の近所でも似たようなことが起こっている。私どもの子供も通った幼稚園を潰して更地にして、そのあと、有料老人ホームを建設する計画が具体化している。
子供は減る一方、お年寄りは増加の一途、私自身も、数年後には後者の範疇に位置するようになる。
先を考えると、なんとも「ふーっ」とため息を付きたくなるではないか。
明け方、枕元に置いてある携帯電話が鳴り始めた。
「おっ、災害か」と受話器に耳を傾けたら、案の定、線路に土砂が流入しているので、すぐに現地に向かってほしいという出動要請だった。
すぐに着替えて、現場が終わった社員に連絡してから本社に向かった。
チェーンソウやスコップやガンづめなどの工具を積み込み、車2台に分乗して現地に向かった。
行く途中、現地の情報が伝わってきた。かなり大量の土砂流入らしく、4人や5人ではどうにもならないと判断し、協力会社に支援を頼み、最終的には総勢30人ぐらいで人海戦術で作業を行った。


本来は、掘削機械を投入したかったのだけれど、寄り付きが悪く、現地への搬入もなかなかなので、要請者の意見をくんで、人海戦術とした。
午前8時半頃には、なんとか形がついた。
人の力というのは、たいしたものだ。
自分たち、土木屋は、掘削=掘削機械というのが、常識で、それしか考えられないというという傾向が強い。少しでも楽して、早く、仕事を終えたいからでもある。
でも、人数を沢山よせれば、機械以上のことは可能だ。機械の手配りをして、機械が現場に到着した頃には、人が多ければ、仕事も終わっている、という現実は、結構、多い。
そのことを、しばらくぶりに思い出したようで、反省しているようなところである。
田端義夫の「雨の屋台」という歌が好きだ。
♪雨、雨、雨だよ。やけに降りやがる。今日でいくんちか土砂降り続き。しゃくでカストリぱいいちいけぱ、からの胃の腑に、あ、じんとしみわたる。
台風4号の進路と梅雨前線が気にかかるが、午後3時頃から降り始めた雨、現在は時間30~50mmの強い雨が9時ころから降り続いている。
台風4号は明日の朝か夕方に影響してくるようなので、河川巡視や諸々の災害発生活動対応に備えておいた。先日発生したばかりの台風5号のほうも気にかかる。5号は日本列島の方向を目指しているようで油断はならない。今週は台風ウイークとなりそうである。
台風が来る。地場の建設会社は準備をして対応に当たる。
これは、総合評価入札方式での加点対象になっているが、加点対象になる、ならない以前の問題で、公共工事等でお世話になっている建設会社は、こういう事態になれば、率先して対応するのは、昔からずっと当たり前だのクラッカーなのである。
なので、こういった地域貢献活動と称するものは、個人的には加点対象にはしてもらいたくない。

これは、貞光小学校卒業記念の「希望」と名付けられた群像だ。
これらは、企画からデザインまですべてを、担任の藤川澄夫先生の主導で進められた。
像の足元には、貞光川で卒業生一人ひとりがひろい集めた大小色とりどりの小石がちりばめてあった。
今は、別の場所に移され、貞光川原の小石もほとんどが散逸しているようだ。
背後にみえる二階建ての木造校舎は「北校舎」だ。私たちは1、4、5、6年生の通算4年間をこの北校舎で過ごした。

北校舎は、東側と西側に鍵の手に曲がる階段があった。階段の手すりにまたがって滑り降りたりすると、先生から拳骨をもらったものだ。西側の階段を下りて左には、講堂や職員室、図書室、保健室、視聴覚教室、放送室、校長室などに通じる、下駄箱の付いた通路があった。
北校舎の、北側には、道路をはさんで池があった。池の名前は忘れた。
北校舎と講堂の間の校庭は「北庭」と呼ばれ、竹登り、ブランコ、自然石、三角形のコンクリート等がおかれていた。講堂と南校舎の間は「南庭」とよんだ。南庭には遊具はなくて全校朝礼などは南庭で行われていた。

その後、北校舎は不審火で全焼し、今は「鉄筋コンクリート」の校舎に建てかえられている。
群像が建てられた高台には、建てられる前は、鉄製の滑り台が設置されていた。
この写真の後方には「滑り台」がみえる。

かつて、校門の両脇にあった木は、父が植えたもので「ミモザ」という木だった。

映画に登場するやくざの仁義に「◯◯川で産湯を使い・・」という言い回しがあるが、ふりかえれば貞光川は自分たちにとって、まさしく産湯を使った川だ、と今にして思える。
貞光川は、泳いだり、魚とりをするだけでなく、野球をしたり、凧を上げたり、焚き火で芋を焼いたり、夏の夜は夕涼みの場所になったり、商工会の歳末大売り出しの臨時のヘリポートになったり、年一回の花火大会が催されたりと、川と町民の生活は密接した関係にあった。
泳ぎ場は「土井の岸」「一本松」「変電所」「おくがん」「しもがん」などがあった。
最初は「土井の岸」で泳いだ。きれいな水が急流となって土井の岸を流れていた。ここは、背の立たないところはないので安全なポイントであった。ここで、それなりに練習をつんで自信ができたら「土井の岸を卒業して」上流にある、背が立たない「一本松」「おくがん」「しもがん」や吉野川との合流地点に近い「変電所」で泳いだ。これらのポイントは背の立たないところばかりで、子供心に「恐い」場所でもあった。
今の土井の岸

こんなコンクリートの護岸はなかった。古(いにしえ)の河川技術で岸が造られていた。
「一本松」と「おくがん」では、二回ほど溺れたことがある。背が立つだろうと思ったら、足が川底に届かなくてパニックになり、手を振り回していたら、偶然岸辺の岩に手がかかり事なきを得たものだ。
貞光川では、川の恐ろしい一面も教えてくれたように思える。
上級生になると、たまに、大川(四国三郎、吉野川)まで、おそるおそる行くこともあったが、深
さ、流れ、川幅が半端じゃないので恐怖心に負け、やはり、貞光川で水浴びするほうが、はるかに多かった。
中学生の頃は、夏休みになるとほとんど毎日、自転車で貞光川の上流(許可された水泳場所以外)に泳ぎに行った。
このぐらいの年齢になると、たいした意味もないのに「学校が決めた規則を破る」こと自体が、なんとなくかっこ良く思えたこともあったように思う。
そこが、この写真の場所である。

この堰堤や、堰堤の下流には、深い淵や急流や飛び込むのに最適な岩などがあり、よく泳いだ。
「かなつき」という銛を片手に、水中眼鏡をつけて潜り、魚を突いたりして遊んだりした。
一回か二回は、ちょっと上流にある皆瀬小学校の下の曲がりくねった流れの場所まで遠征して泳いだりしたこともあった。
当時は、今みたいに、便利なものは何もなかったが、自然だけは今よりもはるかに多くて、山や川や校庭や路地や田畑などで遊びに暮れた体験は、今も、身体のどこかに身についているに違いない。
はじめて「イケベリョー」という名前を知ったのは小学生の頃、父に連れられて貞光劇場で見た東宝映画「宇宙大戦争」だった。
地球侵略の宇宙人を撃滅する主人公の「イケベリョー」という名前を覚えた。
その次は東宝映画「妖星ゴラス」での地球を救う科学者の役が池辺良であった。

ところで、惑星が地球に衝突することが予想される場合の対策としては①他の天体に移住する②衝突しようとする惑星を破壊する③衝突しようとする天体の軌道を変える・・という対策が挙げられるかと思う。事例としては、メテオ、アルマゲドン、ディープインパクトといった洋画がある。
しかし「妖星ゴラス」における対策はそのどれでもない。
妖星ゴラスは、地球そのものを移動させて衝突をかわす、という奇抜な方法をとる。
南極にロケット噴射口を設置し、地球そのものを大移動して天体の衝突を避けるのだ。
ロケット噴射口の工事途中、唐突にセイウチ怪獣「マグマ」が出現して暴れまわる(無意味なシーン)など、サービス精神も旺盛で、驚かせてくれる。このとき、後にTVウルトラマンで活躍する科学特捜隊のビーグルジェットが初登場して、怪獣マグマを退治しているのもおもしろい。
映画は、ゴラスが地球に衝突する寸前に地球が移動して衝突を免れることができた。しかし、質量が地球の6000倍もあるゴラスが地球をかすめることにより、地震・暴風雨で地球は大きな被害を受けるが、直接衝突が避けられたことで大円団をむかえるのだ。
最後に、科学者池部良が「さあ、これから、地球を元の位置に戻すのは大変だぞ。北極にロケット噴射基地を造るのは南極よりも難しい。何しろ海の上だからなあ」と、北極基地プロジェクトがはじまるところで「終」となる。
その後、東宝特撮映画における我がヒーロー池部良は、いつのまにか東宝からいなくなってしまった。
しばらくたってから、池辺良は東映の昭和残侠伝に登場してきた。

再びまみえた池部良は、東映の任侠映画で、ストイックな義理と人情の世界を演じてくれた。
「人斬り唐獅子」の雪の中を高倉健の花田秀次郎と池部良の風間重吉が敵地にむかって歩いていくシーンで、風間重吉に扮する池辺良が「兄弟、生まれたときは別々でも死ぬときはいっしょだぜ」は、今も印象に残っていて、ぜんぜん気障に聞こえない。
ところで、「義理と人情」という言葉を目にすると、古臭いとか、やくざ社会とかを連想させる。
でも「義理と人情」は、昔のおおかたの日本人がみんな持っている心情だと思う。
義理を 公(パブリック)。人情を 私(プライベイト)と置き換えてもいいかもしれない。
♪ 義理と人情を秤にかけりゃ
義理が重たい 男の世界
・・・・・・・とか、
♪ 時世時節は 変ろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界
例えば、昔お世話になった方が困っていた場合、助けてあげたいと誰しも思う。当たり前の心情だ。義理と人情は、今も、残っていると思う。
尾崎紀代彦の「また逢う日まで」は、自転車であちこちしていた頃、能登半島の氷見市のちょっとの先の方で、ランニング姿の地元の中学生と憶しき少年が、大きな声で「♪~また逢う日まで、逢えるときまで~」と大きな声で歌っていたのを思い出す。
新藤監督といえば「裸の島」だ。ほかにも、観ているかもしれないが新藤監督の映画だと意識してみたのは「裸の島」と「午後の遺言状」の二作品だ。
特に「裸の島」は強烈な印象が残っている。
と野山泰司と音羽信子の夫婦と家族の、瀬戸内海の孤島での生活を描いた映画で、夫婦が少し大きい島から、手漕ぎの船で水を汲みに行き、裸の島にある自分たちの畑にまく。
セリフは一切なしだが、無声映画ではない。
最近の、3DやおおががりなCG映画は、いくらすごくても、その時だけで、全く記憶には残らないが、低予算の「裸の島」は、いつまでも心に残っていたりする。