土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
冬の朝
2013-01-30-Wed  CATEGORY: 未分類
 冬の朝は寒い。

少年の頃、吉永小百合が唄っていた。

♪北風吹きぬく 寒い朝も こころひとつで暖かくなる~ざっくり・・



そういわれても、朝は、やっぱり寒い。

でも、いいこともある。

夜明け前の景色である。

晴れると寒いが、景色はきれいになる。

夜から朝に移るまでの、短い時間の景色は格別だ。

東の空は紅く染まりはじめる。


工場のバイオマス発電施設や工場の煙突
朝焼け



西の空に目を転じると、行縢山に月がかかろうとしている。
むかばき

これが、同時に見える。


標高831mの行縢山は、このあたりでは目立つ形容をしている。

宮崎県北部にある大規模なリングダイク(環状山脈)の山並みの一つだ。

ここには伝説がある。

 ヤマトタケルノミコトが行縢山に住んでいた熊襲の首魁、カワカミタケルを征伐したという説話だ。

ふもとには、あの剛弓で有名な鎮西八郎源為朝が腰掛けたと伝えられる「腰掛石」も祀られている。

行縢山の雌岳と雄岳の間は二つの絶壁を分断して滝が落ちていたりする。

スポンサーサイト
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
私の青空 1
2013-01-26-Sat  CATEGORY: 貞光町
私の青空

 帰郷したおり、貞光の我が家のことが同級生のなかで少し話題になった。

 「のぶちんの家は、傾いとった」
「おんぼろじゃった」「
タンスが落ちてきそうで恐かった」
「ほなけんど、なんでか、みんな集まった」
「のぶちんの家で、よく漫画を読ませてもらった」
「よう、遊びに行った」
・・・・・・というような話だった。


 私の生家は「埴生の宿」を連想させるような家屋ではあった。でも、当時の家は、立派な建物もあったかもしれないが、だいたい、五十歩百歩、目くそが鼻くそを笑う、みたいなもので、似たようなものであった。

わが家は、私にとっては今も昔も「私の青空」だ。

 ♪夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて辿(たど)るは わが家の細道

せまいながらも 楽しい我家
愛の灯影(ほかげ)の さすところ
恋しい家こそ 私の青空

※「私の青空」は、なんといっても、高田渡だろう。

 


ページトップへ  トラックバック0 コメント0
帰郷 告白
2013-01-16-Wed  CATEGORY: 貞光町

  還暦同窓会である人に会った。小学校1年生のとき、同じクラスで隣りの席に座っていた子だ。
 中学生の頃はあまり覚えてないので、多分、五十年ぶりの再会だと思う。

 神社の近くにあった彼女の家にも遊びに行ったことがある。

「お久ぶりです。◯子さんですよね」
「はい」
「小学校1年生のとき隣に座っていました。家は、たしか、◯◯はんの隣じゃったね」
「はい」
「遊びに行ったことがあるけんど、覚えているかなあ」

 私のことは、なんとか記憶しているようだが、遊びに行ったことまでは覚えてないようであった。

 ま、それはいい。

 そこで、生まれてはじめて「告白」をした。いい年になのに、なぜだかちょっとだけ恥ずかしい気分になった。

「実は・・多分、◯子さんは、私にとっては、いちばん最初の初恋の人だったと思う・・」。

 お互いに笑顔で顔を見合わせた。

 帰宅してから、この話を、娘に話したら「お父さん、馬鹿じゃないと? まったく・・考えられん・」と云われてしまった。

 「でも、向こうはよろこんでいるような様子だっぞ」

 「そりゃそうかもしれないけど・・まったく・・」

 私の初恋は五十年を経過して、やっと完結したのに、人情の機微など、今の娘っ子には、わかるはずもあるまい。

 
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
甘味がいい。
2013-01-15-Tue  CATEGORY: 食べ物
今朝も、体調は良好。

朝は、起き抜けに、ありあわせの野菜と果物と豆乳の自家製ジュース300ccほどを飲む。ついでに家人の勧める「ミドリムシ」のカプセルを服用させられる。そして、新聞を広げながら、小ぶりの茶碗半分ぐらいのご飯、納豆に塩麹、豆腐と冬瓜と菜っ葉の味噌汁、大根おろし。これに、鰹節の粉ともろみをかけて食べる。そのあとヤクルトミルミルを飲んでから出社している。

 私のお腹の中は、善玉菌といわれている乳酸菌や麹菌だらけだ、多分。

 今朝は、好物の「ぼたもち」が目の前にあったので1個だけ食べた。

「ぼたもち」といえば、最近、子供の頃のように、甘いものが好きになっている。それも、ケーキなどの西洋的な甘さではなく、あんこやぜんざいみたいな和風な甘さがいい。

 一時、抗がん剤の副作用で、味覚機能までが衰え、何を食べてもボール紙を噛んでいるようで味気ない思いをしたが、甘いものだけは、普通に味わうことができた。
 味覚のなかで甘味だけは自分を裏切らなかった。味覚が回復してきた今、あらためて「甘党だった」ことを思い出したような次第だ。

 今は、食べ物は、なんでも食べている。肉も魚も野菜も果物も・・。

 せっかく、結果としてのダイエットができているのに、前のように太りたくはない。

ページトップへ  トラックバック0 コメント0
帰郷 ソウルフードのこと
2013-01-12-Sat  CATEGORY: 貞光町

 年末年始の帰郷のさい、ソウルフードを購入して帰った。

 私にとってのソウルフードは、いくつかある。
今回、ゆうゆう館やスーパーなどで求めたのは「へぎもち」「あられ」「もち」「そば米」「フィッシュカツ」「もろみ」「切り干し」などである。
 もちほか

 
 少なくとも、当地「延岡」では見ることのかなわぬ食べ物ばかりだ。市内のスーパーに行けば、たまに「そば米」が置いてあることもあるが「へぎもち」や「フィッシュカツ」や「切り干し」などは見たことはない。
「もろみ」もこちらに類似品があるが、色合いが全く違う。貞光の近藤糀店のもろみは黄土色をしている。近藤糀店は、私の子供の頃から麹を作り続けていて、現在も町内で営業されている。近藤糀店の「もろみ」こそが私のソウルフードだ。

 (今、近藤糀店のHPを見たら、甘酒があった。購入してみよう)


「そば米」は日常の食べ物ではない。祭りなどハレの日に親戚がより集まって食べるものだ。年に何回かしか食べないが、ソウルフードのひとつである。「そば米」は家族にも好評で、いつのまにかすぐに無くなってしまう。

「もち」は、正月と旧正月に食べられた。貞光のもちは「粟餅」「高きびもち」「草餅」があるのが特徴だといえる。当地で見かけるもちは「白」と「草もち」だけである。

「へぎもち」は、もちをスライスして煎餅程度の大きさにカットしている。これを焼いてバリバリと食べる。素朴であとをひくうまさだ。母が、どこからか鉋を借りてきて、へぎもちをこしらえていたのを思い出す。

「切り干し」。正確にいうと「茹で干し」か。さつまいもをスライスして真ん中に孔を開けて縄を通して大きな釜で茹でて、そのまま軒下に干してつくられた。しばらくすると芋の糖分が表面に白く粉をふいてくる。これを、ポケットに何個か入れて、かじりながら遊んだのだ。
切干

 家で食べた。素朴な味わいでうまい。調子にのって食べ続けていた。子供の頃みたいに、歯で噛み締めて「ぐい」と、ちぎろうとひねったら、奥歯の一本が「めりっ」と音をたてた。
 あまり、痛みは感じなかったものの、確実に奥歯の一本の寿命が縮んだ。

 貞光町のソウルフードはこれだけではない。まだ、ある。あるはずである。今回、目に止まったのは以上のような食べ物だったいうだけである。。

ページトップへ  トラックバック0 コメント0
帰郷 墓参そして希望の群像のこと
2013-01-09-Wed  CATEGORY: 貞光町
 還暦同窓会の翌日の朝、よっちんと一緒に同級生のお墓参りに行った。

 同窓会などでいつか会えればいいなと思っていたがそれも今は叶わなくなってしまった。三年くらい前に、なにかの病気で亡くなったことは耳にしていた。前日の還暦同窓会でお墓の存在を聞いたので行く事にしたのである。

 真光寺の鐘つき堂の下の墓地に彼の墓はあった。こざっぱりとしたきれいなお墓だった。水と線香を手向けて手を合わせた。彼とは、幼稚園から中学まで同時代を過ごした遊び仲間であった。



 墓参りの帰りに、父の歌碑の前で写真を撮ってもらい、貞光小学校を訪れてみた。旧・幼稚園の西端やプールの近くには、昔の名残のプラタナスがそれぞれ1本だけ残っていた。
プラタナス

小学校は鉄筋コンクリート造のきれいな建物に形を変えていた。あの北校舎も、千人は収容できたかつての講堂など跡形も無い。講堂前の円形の花壇だけが当時の名残をそのままにしていた。
   当時の講堂
 昔の講堂

   今の講堂
  現在の講堂



 今も前庭の一角に佇んでいる二宮金次郎の横に、私たちの卒業記念「希望の群像」があった。
 希望の群像の今


この群像は、昔からここにあったわけではない。
元々は、鉄製の滑り台が設置されていた高台に建てられていた。
私たち世代にとっては、滑り台の設置場所だが、昭和の一時期、「奉安殿」が建てられていた場所でもあった。
「奉安殿」には御真影と勅語が収められ、学校内における極めて神聖な場所でもあった。
 終戦後、GHQの指令とかで奉安殿は撤去解体され、私たちが入学した当時は、奉安殿の代わりに高台を利用して鉄製の滑り台が置かれていた。
 学校でも一等地の場所に私たちの卒業記念として「希望」が建てられていたのだ。
 希望の群像


 ところで撤去された鉄製の滑り台はどこに行ったのか。
 知る人はあまりいるまい。

 私の家の西側にF橋さん宅があり、F橋さんの所有の三軒の借家があった。その中庭に滑り台は置かれていた。多分、住んでいたT原さんが、処分に困っていた学校関係者からもらってきて設置したのではないかと思われる。
今も、そこに、かつての滑り台の残骸があるのかどうかまでは定かではない。
 滑り台の話はここでおき希望の群像に戻る。

 希望の群像は、発案からデザイン・製作まで私たちの担任であった藤川澄夫先生が主導でなされた仕事だ。群像も、実際の生徒のモデルが居て、中央の大人は藤川先生であとはクラスの生徒たちだ。滑り台のあった場所に、実際にモデルを配置し「もっと、こっちに寄れ。剣山の方向を見て・・」などと、藤川先生が指示していたような記憶がある。
 群像の足元には、生徒が貞光川で採取した小石が散りばめてあった。一つ一つの川原の小石が自分を表していた。各自一個ずつとして150個近くの青石が埋め込まれていたことになる。

 長い年月が流れ、北校舎の火災焼失や新校舎などの建て替えにより、群像はバラバラになってしまったらしい。青石も散逸しごく一部しか残っていない。それは仕方のないことである。それよりも、群像そのものが当時の容姿を維持し続けていることが奇跡みたいで、素晴らしい。
 バラバラになってしまった群像を修復してくれたのが、同級生の田村君と山口君のお父上だと聞いた。
 そして、今も、町内で活躍されている同級生らによって新たな銘板をこしらえてもらって維持されているようだ。

  感謝、のひとことでしかない。

ページトップへ  トラックバック0 コメント2
帰郷~三社参り 個人的な日記
2013-01-08-Tue  CATEGORY: 貞光町
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。




 年末年始は故郷の貞光で過ごした。

 その間、私を「いとう」と呼ぶものは居なかった。
会う人誰もかれもが、私のことを「のぶちん」とか「のぶちゃん」「しらうら」「しらうら君」と呼んだ。私も、何の違和感もなく返事を重ねた。

 大晦日から正月4日までは「しらうら」であった。
大晦日の8時過ぎに延岡を発ち夕方の4時ころに貞光町に着いた。走行距離350kmだが、そんなに疲れてはいなかった。

 美馬ICを降りると、貞光町の後ろにひかえている友内山が出迎えてくれた。以前、三頭山のことを、このブログで書いたことがあるが、最初に眼に入るのは三頭山ではなく友内山であった。
 友内山

貞光の狭い通りを車を走らせた。歩いている人はひとりも見えなかった。
急に、物悲しくなってきた。
この物悲しさはなんだろう、と考えてみた。
帰る家が無い、人が見えない、といったことが夕方の景色とあいまってそうさせたのかもしれないと思った。
年末年始は友人宅での居候を決めていたので、そのまま友人宅に落ち着いた。

 30日に打った蕎麦、手土産を持って近くのさとっちゃん宅を訪れた。二人居た。ひとりは、さとっちゃんだが、もうひとりは見知らぬ人であった。近くのおっさんだと思った。

さとっちゃんが「おい、こいつ、誰かわかるか」とお互いに聞いた。
ひょっとして同級生のひとりかもしれないと、じっくりと顔と顔を見あわした。

「お前ら、まだわからんか」
「わからん。誰?」
「よー見てみい・・・・。ほんとわからんか」
「わからん」

「のぶちんじゃわ」
「ひろっちんじゃわ」

 ええっ!!! うそっ・・となったのである。

 おおつごもりの夜は、さとっちゃん宅で同級生7名と年越しをした。いわば、還暦同窓会の前触れみたいなものである。

 久しぶりに飲んだ。昨年に手術してからこっちアルコールは飲めなかった。体が「要らん」と云ってた。
でも、なせだか、以前ほどではないが、そこそこに飲めた。
折目が「おい、あんまり飲み過ぎるなよ」と気遣いしてくれた。
私は「まだ、しゃあねえ」とグラスを傾け続けた。

 午前0時が過ぎてから、皆で初詣に行くことにした。
一番目は、私の氏神様でもある「松尾神社」に参拝した。いったい、どこから人が湧いてくるというのか。境内は大勢の人でごった返していた。閑散とした夕方の通りを見ていたので信じられないぐらいであった。氏神様もおよろこびになったろう。
 松尾神社

 
拝殿での岩戸神楽を見ながらお神酒をいただき、温かい蕎麦を食べた。
そのあと、快くて冷たい風に吹かれつつ、みんなで先祖の菩提寺である真光寺に移動した。南無大師遍照金剛と唱えて参拝し「ぜんざい」をいただいた。ここでも、火の番をしている同級生に会った。

 そのあと、お寺の少し上に位置している熊野神社に詣でた。
熊野神社に登る急勾配の坂道は、子供の頃、雪が積もると斜面を足で踏んでテカテカに凍らせて「きんま」で滑った遊び場でもあった。
こんなところを滑っていたのか。よく、大きな怪我をしなかったものだと思いつつ、少し息を切らして登った。

熊野神社境内には沢山の提灯が飾られ、それぞれの提灯には、すでに亡くなれられた方などのなつかしい名前も書かれていた。
西山


そこで、K書店の娘さんのYKさんに会った。
消防署の折目が紹介してくれた。
「おい。この人、知っているか」という。
 涼し気な感じの女性が娘さんと思われる若い人とならんで立っていた。

 折目が「KのY子さんよ」。

 ええっ。

 YKさんは私らよりも一つ年上の美少女で私たちの間では有名人であった。口をきいたことなどなく、遠くからながめているだけのマドンナ的存在であった。

 還暦を過ぎているはずなのに、あいかわらずのお綺麗さには「さすが」と感心してしまった。
Kさんは私のことはあまり知らないが、私の父のことはよく記憶されていた。

 こうして、今年の私の新年は、氏神様、菩提寺、熊野神社の三社参りをすませたのだ。


 
ページトップへ  トラックバック0 コメント2
<< 2013/01 >>
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -


余白 Copyright © 2005  日々(いや、気のむくままに)読み書き. all rights reserved.