土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
映画を観る、水戸黄門。
2013-02-28-Thu  CATEGORY: 映画

この前、昔の「水戸黄門」を観る機会があった。

 月形龍之介が水戸黄門、助さん格さんは、東千代之介と大川橋蔵。将軍綱吉は片岡千恵蔵、柳沢吉保は進藤英太郎、ほかにも、市川右太衛門、大河内伝次郎、大友柳太朗、中村錦之助、伏見仙太郎など東映のオールスターが登場してくる゛てはないか。
 キャプチャ1


 黄門と格さんたちの関係は、今のようなフレンドリーな間柄ではなく、武家社会の主人と家来の関係で雰囲気が「ビシッ」と、締まっているのが面白い。

 それにしても、主演の月形龍之介の立ち居振る舞いや言い回しは、凄い迫力がある。あんな人から睨まれたら、何も言えないようになるだろう、そう思わせる演技ではある。



 多分、今は、こんな映画作らないだろうなあという気がする。いや、作れないだろう。



 東映時代劇映画は、よくわからないまま、父に連れられて「貞光劇場」で観ていた。

 その影響なのか、今も、映画を観るのは好きだ。

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グーグルストリートビュー
2013-02-25-Mon  CATEGORY: 未分類

 朝外気温3℃。
 晴天のはずなのに、このところずっと早朝の星々がひとつも見えない。大気全体がかすんでいるようだ。といって黄砂は確認されていないようだし、なんなのだろう。


 今日は、グーグルストリートビューのこと。
 
 
 
 貞光町のストリートビューは公開されているが国道だけで「うだつの町並み」が対象になっていないのが、残念だと思っていた。

しかし「織本屋」「永井屋敷」などがストリートビューで見ることができるようになっているのに、はじめて知った。
キャプチャ

 すごいなあ、としかいいようがない。

 ほかにも、徳島市の阿波踊り、かずら橋、渦潮の道、美術館・・などが見られる。

  → ここ

 東京、高知、岐阜、愛媛、北海道、山梨・・・全国各地のギャラリーがある。

 グーグル 何を考えているのか、といいたくなる。

 
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ソウルフード  甘酒
2013-02-22-Fri  CATEGORY: 貞光町
甘酒

近藤糀製造所で甘酒を購入した。
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 近藤糀製造所は、私の子供のころには既にあった。現在は何代目かは見当がつかないが「老舗」である。


家人から、ホットにしてもらって、すりおろした生姜を入れていただいた。
ご飯粒の舌触り、適度な自然な甘さと酸っぱさがひろがる。

うーん、あの頃の味だ。(・・と思う。)

甘酒には二通りある。
ひとつは、酒の粕をお湯で溶いて砂糖を加えて鍋で煮るなどしたもの。

「甘酒、飲むで?」
「うん、もらおうかな」
「はい」
・・・・・と出された甘酒が、酒粕の甘酒だったりすると、がっかりする。
私からすると「これは甘酒ちゃう。二度と甘酒と呼ぶな」といいたい。

こいつは、アルコールが残っているので飲み過ぎると酔うこともある。

原料の酒粕は、わが家の隣にあった阿川酒造から毎年いただいていた。
私は、よいたんぼ(酒飲み)ではないので、飲めんことはないが、苦手な飲み物だった。

甘酒もどきにするぐらいなら、酒粕を七輪の網の上に広げて焦げ目がつくぐらいに炙ったのに砂糖をつけて食べるほうを取る。そのままだと食べられないが、焼いて砂糖の甘味を加えることで、冬の寒い夜に適したデザートとなる。

今回のは、米麹と米を醗酵させた「正真正銘」の甘酒だ。

「まつり」があると、母がよく作ってくれた。いわゆるハレの日に口にするものだ。
近所の近藤糀製造所で「麹」を求めてきて、陶器でできた瓶の中に入れて作っていた。

生姜をちょっと効かせた熱い甘酒を湯のみに注いでもらい、両の手でつつみ込んで「ふーっ、ふーっ」と息を吹きかけながら飲む。

もちろん、冷たいままでもうまい。

甘酒は、非日常の食べ物とはいえ、私のソウルフードの一つとして数えてもいいだろう。
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還暦から連想
2013-02-20-Wed  CATEGORY: 未分類

満60歳。還暦。

昔は「人間五十年」

古希の年齢は七十歳

「古稀」は、杜甫の詩「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」から来ている。

酒代のツケはどこにでも転がっているが、七十年も生きる人は希にしかいない、という意味合い。
酒代のツケと人生を並べて比較しているのが、なんともいい。
人生も酒代のツケも同じようなものか。

杜甫といえば「国破れて山河在り」の詩人だ。中学校の授業で習った記憶がある。

 同じように授業で習ったものといえば「床前  月光を看る, 疑ふらくは 是れ  地上の霜かと。 頭を舉(あ)げて  山月を 望み, 頭を低(た)れて  故鄕を 思ふ」も、印象に残っている。意味は教師から教えてもらった。
 
 頭のことを「こうべ」と読むのを知った。

 今でも暗唱できる。これは、李白の詩だ。


 また「前赤壁の賦」も少しだけ暗唱できる。

じゅんじゅつのあき
しつげつきぼう
そし きゃくとともにふねをうかべ
せきへきのもとにあそぶ
せいふうおもむろにきたりて
すいはおこらず
さかづきをあげてきゃくにしょくす
めいげつのしをしょうし
ようちょうのしょうをうたう

ここまで覚えていた。あとは、覚えていない。

漢詩は、いいなあと思う。

還暦のことを思っていたら、前赤壁の賦まで来てしまった。



話は変わる。

今、グーグルマップを見ていて気付いた。
いつのまにか四国全域がストリートビューで見られる。

ふるさと貞光も、国道沿いが対象になっている。
美馬橋から、土釜あたりまで辿ってみた。
 【ストリートビューで見る、同級生のスタンド
 キャプチャ


同級生の家を4軒5軒ほど数えることができた。



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鉄棒
2013-02-19-Tue  CATEGORY: 未分類
私は、鉄棒や球技が苦手で、逆上がりができたのは遅く、中学2年生頃だった。

はじめて逆上がりができたときの感動は今も覚えている。

CIMG8600_20130219201146.jpg

はじめて大人用の自転車で走れたときも同様だ。


それまで全く出来なかった事が、ちょっとしたはずみで、急に出来るようになる。
その感動はいまも脳裏に刻みこまれている。

やりたいことは、じっと、待っていても「出来る」ようにはならない。それには、最低限の努力が必要だ。

逆上がりの時は、毎日、鉄棒に飛びついて何回も、何回も、両足を上げては落ちる、を繰り返していた。無駄な努力と思いながらやっていたら、何かの拍子で急にできるようになった。

自転車のときは、何回も転んで手足が傷だらけになった。それでも「乗りたい」という意志のほうが強く、痛みを辛抱して繰り返した。
未舗装のでこぼこ道を走れるようになったときは天にものぼるような心地になった。


近年では、七・八年前に技術士の2次試験に合格したときのことだ。このときは二回よろこんだ。一回目は、Web上の筆記試験合格者名簿で自分の名前を見つけたとき。つぎは、口頭試験を受けて、何ヶ月もあとになって、夜明け前の新聞店に走り、真新しい紙面で、自分の氏名を確認したとき。

こういったことは忘れられない。

これらの事が役に立っているかどうかなど関係ない。努力が報われるということは、常にいいことなのだと思う。また、それが、多分「勉強」なのだと今にして思う。

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土曜日の朝の空。
2013-02-18-Mon  CATEGORY: 未分類
土曜日の朝。外気温0℃。

朝食前に犬を連れて散歩に出た。
見あげると久しぶりの星空。
ポケットからスモホを取り出しスカイマップを開いて星空にかざす。

 星の名前がリアルタイムでわかるというのでダウンロードしていたのを試してみたのだ。

 
 犬が、急に立ち止まった私を見上げ「先に行こう」とせかす。
 構わず「まあ、待て」と、ひときわ明るそうな星とマップを見比べる。


東の空の目立つ星は「ベガ」とか。あとで調べたら25光年。
真上に光るのは「スピカ」。これは250光年。
その横の星は「土星」。

 今まで名前でしか聞いたことがなかった星々の位置を教えてくれる。

 おっ「さそり座」が見えているはすだ、どれどれ。

 あ、あれか。

 東の空に「らしきもの」が見えた。

 さそり座を見るのは久しぶりだ。貞光に居た頃、夏の夜二階の部屋から南の空の端にみたことがあるが、それ以来だ。

 リアルタイムで星座、惑星、恒星、星雲など星々の名前がたちどころにわかる。
 なかなか、いいではないか。

 しかし、便利になったものだ。

 
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電話
2013-02-14-Thu  CATEGORY: 貞光町
2/14/2013(木)晴天
朝外気温2℃。


昨夜、同級生のひとりから電話があった。

今から反省会をはじめる。10人ぐらい集まっている。お前も出てこい。というような内容である。

「おお、今から行くわ」と返事してみた。

背中に翼でもれば、すぐにでも駆けつけるのだが・・・・・・・。

 彼ら(彼女ら)は、あれこれちょっとしたきっかけを見つけては反省会を催しているようだ。

 いいな、と思う。


彼ら(彼女ら)の反省会の事を聞いていると、あまり関連はないかもしれないが、高田渡の「酒心」が思い出された。

「酒心」

♪雨が降るといっては飲み
 晴れれば晴れたで飲む
 雪で一杯
 紅葉(もみじ)で一杯
 夏の夕立後は さわやかに一杯

 春のお酒は たまらない
 一分咲いたら ちょっとと一杯
 二分咲いたら また一杯
 三分咲いたら 本格的に飲む

 散りゆく花に  涙して
 酒飲み族はたまらない
 酒飲み族はたまらない  と言った具合で
 一年 三百六十五日 飲む


しかし、遠慮もいらない飲み方は最高だ。三百六十五日でも、いい。



ところで、今回、同窓会で旧友たちと会って感じたなかで、思い出した言葉がある。

「男子三日会わざれば刮目して見よ。」である。

この言葉に、説明も解説もいらない。しいて言えば、今や男子だけとは限らないだろう。

とにかく、自分はそう感じたのだった。

 【高田渡 酒心】





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渡し船の時代
2013-02-06-Wed  CATEGORY: 貞光町
明け方、曇の晴れ間に三日月が顔をのぞかせていた。本来の名称は「十六夜(いざよい)」というようだ。十六夜の月明かりの下で、日課の犬を連れて散歩をしてきた。




これは「喜来の渡し」だ。吉野川左岸右岸(貞光町馬出)から右岸左岸(美馬町喜来)への渡し船に乗船中の一枚だ。美馬橋の完成を間近にひかえた頃で、季節は冬の終わり頃のように思える。
喜来

上の方に張られたワイヤーが見える。どうやら、岡田式渡船らしい。
岡田式とは、岐阜県の岡田只治氏が発明された、全天候型渡河方式で吉野川にも沢山の岡田式渡し船があった。

 この写真は、同窓会で帰郷したおり、同級生の「ひろっちん」宅に遊びにいったとき、見せてもらった写真だ。そいつをデジカメでコピーしてきたのである。

 なんと、なつかしいではないか。

 美馬町の親戚に行くときは、写真のように父に連れられて何度も喜来の渡しに乗船していた。乗船の列の中の子供は、背格好からして「もしかしたら私」という可能性だってある。

 向こう岸(喜来)に着くと、宗重にある親戚の家までは徒歩だ。子供の足だと1時間ぐらいはかかる。
何度か乗船したとはいえ、その記憶はうすぼんやりとしている。

 残像として、私の頭のなかに残っているのは、踏切、石塔、鬱蒼とした竹林の中の小径、石ころだらけの川原、渡船場、河川敷に並べられた和傘、橋脚だけの美馬橋といった断片的なものだけである。

 奥に見える美馬橋が開通したのは1958年春だから、私の記憶は5歳か6歳のことになるのだろう。


 対岸の美馬町喜来で下船すると、そこから、父と二人で、段の塚穴古墳の近くにある親戚の家まで、田んぼ道をとぼとぼと歩いて行くことになる。

「まだ?」
「もう、ちょっと」

「まだ?」
「もう、ちょっと」

 歩くのはつかれるけれど、親戚の家までいけば「いいこと」が待っているのがわかっているので辛抱できるのだ。

 でも、幼なごころに「いったい、いつまでが、もうちょっとなのか」と思いつつ、両脇と真ん中に草が生い茂った真っ直ぐな道を父について歩いていった。

 右側には吉野川の竹林、周囲は田んぼ、その中を何の変哲もない一本の農道が西から東に通っているのだ。
やがて、進行方向左手に朱塗りの山門がみえてくる。

 父は指さしながら、あれは「あかもんでら」、あそこは「がんしょうじ」などとお寺の名前を教えてくれた。

 1950年代の終わり頃までの交通手段は、汽車やバスも走ってはいたが「歩く」ことも主要な交通手段のひとつでもあった。
 その他の手段といえば、荷車、馬車、自転車、リアカーも使用されていた。
今「道路」と名がつけば、アスファルトで舗装されているのが当たり前だが、当時は、幹線道路の舗装が、おいおいと進められている途上で、幹線道路以外の道は、でこぼこで雨が降ると水たまりだらけになった。

 今も、雨が降ると「お足元のお悪いなかをご足労いただきありがとうございます」という挨拶があるが、当時は、雨上がりの道を歩くのはひと苦労で、そのときの名残が挨拶として残っているように思える。

 渡し船の時代は、鉄道まっさかりの頃で、美馬町に居住されていた人たちが喜来から貞光まで吉野川を渡って行き来していた。貞光町には国鉄貞光駅があり、商店街も賑わっていた。貞光駅は徳島本線の主要な駅のひとつで、喜来の渡しは「渡し船」とはいえ、幹線道路でもあった。

 今は、道路事情が見違えるほど整備され、交通手段も鉄道から自動車に移行し、なにもかもが大きく様変わりしてきた。徳島道のICは美馬町にあり、今は、美馬町が交通の基点になっている。

 「歴史は繰り返すと」とか、「時代は螺旋状に進展していく」などといわれるが、モーダルシフト社会とかで、鉄道が見直される時代がくれば、貞光駅が交通の基点に回帰することもあるのかもしれない。

 ここにきて、ふと思ったことがある。
ここは、「喜来の渡し」である。「喜来」の対岸は貞光町「馬出」である。でも「馬出の渡し」と聞いた覚えはない。貞光町サイドの視点からいえば「馬出の渡し」でなければならないはずだ。
なんでだろう。

 喜来に行くよりも、喜来から訪ねてくる人が多い、つまり、貞光町よりも美馬町の住民の方の利用者が多かった、といえるのかもしれない。
 
 1970年頃
貞光空撮

 
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帰郷 同級生たち
2013-02-01-Fri  CATEGORY: 貞光町
今日は、3か月検診を受けてきた。

 血液検査の結果は上々だった。「健康体」の見本である。あらゆる数字は優等生的データを示していた。

 例の2種類の腫瘍マーカーも、上限値以内におさまり、前回よりも数値が低下していた。
あいつらも、今のところは、おとなしくしていてくれているようだ。
これからも、あいつらが暴れださないように、永く付き合っていきたいものである。




久しぶりに会った同級生の中には「誰だったかな」と名前も顔も思い出せない人も居た。こちらが覚えていても相手が覚えてなかったり、その逆があったりで様々な反応があった。 

そういった中でも、幼稚園、小学校、中学校まで10年間ずっと一緒だった同級生たちは、老朽化した顔は、すぐには思い出せないにしても、名前だけはきちんと覚えている。誕生日まで思い出せる奴もいた。

 四十五年という歳月は、そういうものなのだろう。

 最初は「あれ、こんな顔していたかな」と、顔を見忘れしていても、話しているうちに、段々と昔の顔が、今の顔の中に「じわり」と浮き出てはて、思わず吹き出したくなるのだ。

 まあ、お互い様である。

 女性は、皆さん元気な方が多く病気がちな人は少ないようにみえた。改めて女性の強さというのを再確認させてもらった。

 反対に、男はというと、ほとんどの者が体になんらかの疾患を抱えているようであった。岩崎宏美の「♪男はみんな傷を負った戦士~」というあのフレーズがしっくりとくるのだ。

 男は、女性とちがって、筋肉が多いだけで、肉体的にも気分的にもか弱い存在かもしれない。

帰郷したついでに、旧・商店街や、入り組んだ小路など、あちこちと歩いてみた。正月で家の中にこもっておられるのか、外を歩いている人はほとんど見かけることはなかった。


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歩き回れば回るほど寂寥感がつのり、物悲しくなるばかりであった。


 でも、同級生たちと会って、話をすると、気分は一転してしまうのだ、これが。

 同級生は、愉快で、いいものだ。

四十年、五十年会っていなくても、すぐに過ぎた歲月を埋めることができる。

「私のふるさとはここにもある」と思い知らされた。

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