土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
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泳ぐ
2013-07-31-Wed  CATEGORY: 未分類
 朝夕、散歩を日課としている。合計で8000~10000歩というところか。こうして、ずっと、続けてこられたのは相棒がいるからだ。

 相棒は、時間がくると「連れて行ってワン」とせがむ。連日の暑さで少しは弱るかと危惧したが、柴犬の特長なのか、暑さには強いようだ。

 散歩の途中、川の中に入って泳ぐのがこの頃の習慣。誰に教えられたわけでもないのに、少しも億劫がらず、流れに飛び込み、両手、両足、尻尾まで使って器用に泳ぐ。背の立つところにくるとじっとして動かなくなる。
 犬かき

 泳ぐといえば、まごも100m泳げるようになった。市民水泳教室がはじまった頃は25mが泳げなかったのに。10日後の最終日は自由形で25m×4ができるようになった。下から二人目が、まご。
ひなた水泳

 教えるコーチは、かつて、ひなたの母親の水泳のコーチ。親子二代で教えてもらった。

 ひなたの母親がコーチに「昔より、とてもやさしくなりましたね」と言ったら「昔と違って素直でいい子ぱかりだからな」と言われていた。

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経験~技術者
2013-07-28-Sun  CATEGORY: 建設


 発注機関から弊社が38年前に施工した河口部にある水門の資料はないだろうか、という問い合わせがきた。
なんでも、耐震の検討のため必要であるとか。南海トラフなどの対策なのかもしれない。

 当然のように、発注機関には設計図書も何も残ってない。当時の役所の担当者も工事のことは記憶にないので、お宅の会社なら、なんとかなるかもしれない、連絡させていただきました。という相談であり、依頼であった。

 39年前というと、入社して1年が経過したばかりで別の工事現場に行っていた。今の時点で、最古参に近い私も「そういう工事があったなあ」ぐらいしか覚えていない。

 会社の中を探しても、そんな資料などあるはずもない。
 多分、駄目だと思いながら、とりあえず「調べておきます」と返事しておいた。

 日常の仕事しながら、時々、その件について思いを巡らしていた。

「あ、そうだ。Hさんが居た。もし、先輩のHさんがその工事を担当していたら、資料が残っている可能性がある」

 で、三十年ぶりにHさんに連絡をとった。現在は独立して小さな建設業を営んでいられる。

 Hさんは、三歳上の私の先輩で、入社早々から退社されるまでお世話になった方だ。

 朴訥で、真面目で、度胸があって、思い切りがよくて、測量が得意で、重機の運転も上手で、とにかく頭がよくて、なんでも出来て、要するに仕事のできる方だった。

 私は、当時の大勢の先輩の中で実力ナンバーワンだと思っていた。あんなに、なれるわけないと思いつつ、Hさんみたいな技術者になりたいと思っていた。

 一緒に仕事をしたのは入社早々の道路改良工事の現場だけであった。泊まり込みだったので、ほぼ24時間、同じ時間を過ごすことになった。

 しかし、Hさんみたいになれたのは、あまり風呂に入らないこと、作業着のままで布団に入り、そのまま起きて顔も洗わず、誰よりも早く現場に行くことぐらいで、肝心なことは真似できなかった。

 

 Hさんは、その日の仕事が終わると、その日の記録をつけるのを日課としていた。現場の測量などは、日中の施工の邪魔にならないよう作業員が帰ったあとや休日などに集中的にやっていた。

 私には施工歩掛りの重要性を教えてくれた。どの工事に、何名の作業員、建設機械、材料などのデータを細かく調査して記録に残す、といった作業だ。

 Hさんは、発注者に提出する施工管理書類は必ず二部作成した。一部は提出用、残りの一部は自分のデータとして残すことをしていた。

 Hさんは、自分が担当した工事は、何もかもすべてデータにして残しててた。当時から「いつか独立し自分の会社立ち上げる」と決めていたのかもしれない。

 現場を経験するだけでは単なる思い出とか体験に過ぎないけれど、目的を持って記録しデータ化することにより、一つ一つの工事体験が経験として生きて来るのだと今にして思う。

 そのような方だったのでHさんが担当していたら、当時の記録が残っていると踏んだのである。

 調べてみると、幸いにも、主任技術者として、その現場を担当していたのはHさんであった。

 そして、事情を説明して「ありますか」と聞いた。

「歩掛りはあるが、図面や写真などは、この前、整理したとき捨てた。ネガフィルムも全部あったけれど、捨てたもんな」と云われた。

やはり、ついこの前までは、あったのだ。



 翌朝、Hさんから電話がかかってきた。
「あれから、探してみたら、少し、出てきた」と連絡があった。

「今から行きます」と会いにいった。

 貴重な資料を貸してもらった。簡単な図面を描いて、詳しく説明をされた。写真も肝心なところのモノが出てきた。


 すごい、と思った。

 さすがHさんだと思った。

 発注者に資料を見せたら、担当者から「すごいですね。プロジェクトXみたいですね。へえー、基礎は岩盤だったのですか。これは、助かります」と言われた。

 詳細はHさんに直接聞かれたらいいと思いますと、連絡先を渡して、発注機関をあとにした。

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高校野球・・・ソースのこと。
2013-07-19-Fri  CATEGORY: 未分類
 今日は、施工能力評価型(Ⅰ型)で提出する施工計画を作成しながら、その一方でTVつけっぱなしの高校野球準決勝宮崎大会を観戦していた。

 試合結果は、聖心ウルスラ高校と延岡学園で明日の決勝を争うことになった。

 両校とも延岡市内にある私立高校だ。多分、延岡勢同士の決勝ははじめてではないかと思う。


 どちらかが夏の大会に行き、徳島の代表校、たとえば、池田高校あたりと決勝戦で戦い、奮戦の結果惜しくも敗れて準優勝になるといいなと、ひそかに願う。





ソースといえば「ウスターソース」である。

子供の頃はイカリソースしかなかった。

 当時、ご飯のおかずが無いときなど、父が「今日は洋食を食べさせてやる」と言って、西洋皿に炊き立てのご飯をよそおい、ウスターソースをかけてもらいスプーンで食べることがあった。

 これが、子供心に「うまかった」のである。



 その後、親子丼やチャンポンにソースをかけると甘くなることを、二つ目の勤務先四国ボーリング工業の創業者から教えてもらった。

 今も、カレーライスにはソースをおまじないみたいにちょっとだけかける癖があるし、家で食べる天ぷらはソースをつけて食べる。



 もちろん醤油もいい。醤油のない食卓など考えられない。



 で・・・・、今回、オリバーソースから発売された「しょース」を知った。

 好奇心のおもむくまま、さっそくネットで取り寄せてみた。

しょース

 醤油風味の甘口とんかつソースみたいで、なかなか、いけると思った。


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脂身
2013-07-18-Thu  CATEGORY: 食べ物
「肉」といえば牛肉をさす。なかでも、牛肉の脂身がいちばん好きだった。



 母に頼まれて肉屋さんまでお使いにいくと、計量器の上に薄い木の皮でこしらえた「舟形」の容器に肉を入れてくれる。いちばん最後に、肉の上に脂身を載せてくれるのだ。この脂身が最高にうまいのだ。



 貞光町内には、金井精肉店と尾花精肉店の二つの肉屋さんがあった。肉を口にする機会はめったになかった。
年に数回ぐらいだったろう。

 牛肉の代りとして食べられていたのが鯨の肉だ。今は、反対に、鯨肉を食べる機会はほとんどなくなったが、当時は庶民の食べる哺乳類系動物性蛋白質の代表は「クジラ」だった。

 WEBで調べてみると昭和35年の100g当たり価格は、鯨肉13円、牛肉55円、豚肉64円、鶏肉48円。
 鯨肉が安いのがわかる。

 焼肉缶詰の中身も鯨肉であった。



 鯨肉は淡泊で、少し硬くて、牛肉のほうがはるかにうまいのだ。そして、牛肉には、あの脂身がついてくる。



 脂身に火を通すとだんだんと透明度が増して柔らかくなる。口の中に入れると「ほろっ」ととろける。子供の自分はこれを食べるのがいちばんの楽しみであった。



 長じてからも脂身が大好きで、こればかり偏って食べていたことがある。酒をがぶがぶ飲み、脂身ばかりを食べ、たばこをすぱすぱと吸っていた。


 知らないうちに、体に異変が起きていたのも、仕方ないなあと思うのだ。



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久しぶりに更新 つまらないこと
2013-07-17-Wed  CATEGORY: 未分類
久しぶりに更新する。

長い間、更新しないと、何を書いていいのかわからなくなる。

とにかく、ぼちぼち更新してみる。





先日の日曜日は、大分方面にドライブに行ってきた。

 私は、父の日に子供からもらった黄緑色の半ズボンと、還暦祝いに家人からもらった真紅のTシャツを着て行った。

 私が子供の頃、黄緑とか赤の原色など着ているものは一人もいなかった。そういったものを着るものは「どこかおかしい」と思われる、そんな時代であった。でも、今は、そのような装いをしても、誰もが似合うし(?)、多分、おかしいと思う人は一人もいない。

時代も変わったものだとしみじみ思う。



昔、映画館は子供たちには「悪所」とみなされていたはずだ。でも、父は子供の私を「悪所」にたびだび連れていった。

私はわけのわからないまま、月形龍之介や市川右太衛門からはじまり、東映、東宝、日活、大映の作品を見させてもらった。子供の私は、大友柳太郎の「怪傑黒頭巾」の二丁拳銃にあこがれ、その後「ゴジラ」や「海底軍艦」等に代表される東宝特撮映画に熱中した。

当時は、黒沢映画の「蜘蛛巣城」は見ていないが、父から「あの映画はよかった」と何回も聞かせてくれた。

 そういうこともあり、悪所通いは続き、一人でみたり、友達を誘ってみるようになった。

 忘れもしない、生まれてはじめて、映画館内に係員の目をかいくぐって忍び込んだのは小学三年生であった。当時、町には二つの映画館があり、忍び込みの「はしご」をしたこともある。

 考えてみれば、私の孫も小学三年生である。当時の子供たちは、今の子たちよりかなり悪かったのかもしれないなと思う。

 悪い、といえば、当時は「普通」でも、今と比べると、かなりの悪さをしていたように思える。

 よそ様の家の屋根に上って忍者ごっこをしたり、食料品倉庫に潜り込んでコーヒー牛乳を飲んだり、授業中に教室から抜け出て屋上で遊んだり、石のぶっつけあいをしたり、人様の玄関を破壊したり、柿・栗・枇杷の実、蜜柑などを無断で頂いたり・・・・・・・・。

 今の親や先生から見たら、とんでもない子供だ。今の「私」でも、そう思う。

 
 
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