土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
ふるさと、貞光の話。昔と今。
2010-05-12-Wed  CATEGORY: 貞光町
 午前5時35分起床。天候は晴れ。室内温度20度、外気温、未確認の朝だ。 
 
 今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと玉ねぎの味噌汁、納豆と海苔、ちりめんじゃこの佃煮、濃茶をいただいた。



郷里の川,貞光川に架かっている橋、長橋。
 対比昔の長橋


この白黒写真は、昔の「長橋」である。撮影された年代は昭和32~33年頃だと思われる。というのは、写っている人物が私の兄の同級生であることから、想定できるのだ。
私も、長橋が吊り橋であった記憶はうっすらと残っている。その後、大水で流失して「潜水橋」に造り替えられたのだ。

子供の頃は、潜水橋の上をローラースケートで遊んだり、夏の夜は父に連れられて潜水橋の上で夕涼みをしたり、出水のときには潜水橋の上を激流が流れ下るのを見物にしたり、地域生活にとって重要な橋として、現在に至っている。

 今の長橋
 対比今の長橋


 もうひとつは、現在の美馬橋の貞光町側の入り口の写真だ。上の「長橋」と同時期に撮影されたとすれば昭和32年かもしれない。というのは、昭和33年には美馬橋が架橋され開通したので、この写真が撮られた頃は、架設工事の真っ最中だと思われる

 美馬橋の入り口
 対比昔の美馬入り口

 今
 対比今の美馬橋入り口



 美馬橋が開通するまでは、対岸の美馬町との交流は「喜来の渡し」が唯一の交通手段であった。今の、徳島県立貞光工業高等学校の前の道路を通っていくと竹林が鬱蒼と生い茂り、今でいう多自然型の護岸が形成されていた。このあたりは寂しく、竹林の手前、右側には「火葬場」があった。葬礼があるたびに火葬場の煙突から黒い煙がもくもくと吐き出されていた。火葬場の前を通り薄暗い竹林を抜けると視界が開けて吉野川の河川敷に出る。そこに「喜来の渡し」と呼ばれる渡し船があった。これに、人や自転車などを乗せて対岸に渡る。美馬町の人たちは、喜来の渡しから貞光に渡り、貞光駅で荷物を発送したり、汽車に乗ったりしていたのだ。

 今は、美馬橋のすぐ上流と下流にも吉野川をまたぐ橋が架けられている。
 橋と川。人の生活と「橋」や「川」の関係は切っても切れない生活の一部だなあと思う。

 こうして比較してみると、背景の山や川は、変わってなどない。

 「国破れて山河在り」。破れてなんかないけれど、まさしく「山河あり」だ。


 
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