土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
ルーツ 1
2010-06-01-Tue  CATEGORY: 昭和という時代
午前5時34分起床。天候は曇り、小雨。室内温度22度、外気温19度の朝だ。 
 
今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと筍の味噌汁、納豆と海苔、キムチ、濃茶をいただいてきた。今日は、終日、雨が降った。時折、激しく降ったりして、今も降り続いている。 



私は、母のことも父のことも、知っているようで、実はあまり知らない。私が物心ついてからの父と母のことは語れるが、それ以前のことはあまり語れない。

子供の頃に両親から聞いた話の断片しかない。そういった、断片をつなぎ合わせて、父母のことを書いて見たい。

    私の旧姓は「白浦(しらうら)」という。

 私の母の親父のことから書いてみたい。つまり、私の爺さんである。「ひなた」にとってはご先祖様である。

 私は、父母のことをあまり知らないのだから、爺さんのことは、会ったこともないし、もっと知らない。父母から聞いたことも、ごくわずかだ。

 ただ、幸いなことに「貞光町史」に、祖父、曽祖父のことが記載されていたので、さらにご先祖様まで、少しだけ辿ることができる。

  爺さんの名前は「亀五郎」。この人は四国吉野川の水運をはじめて開拓した人だったという。

 

        以下、貞光町史より引用

 白浦栄三郎と長男亀五郎親子が高知県に進出して「寒峰」その他の土佐材を伐採して、池田まで流送しそれから筏に組んで徳島に運送した。吉野川流送の草分けであるが、出水のため何年も費やして運んできた材木を全部海へ流失したこともあった。川を利用する運送は無事にゆけば賃金も安く随分儲かったが、大出水-流失の憂き目を見た日には、虻鉢取らずになる。いわば、乗るか反るかの「大ばくち」だった。白浦らの木材事業は、稼ぐにも仕事の少なかった当時の端山、一宇、八千代村の男手を使ったから、山村の生活に相当な潤いをもたらした。(P.847からP.848より引用)


       ついでに、曽祖父のことも同じ町史に出ている。

 白浦栄三郎(幼名嘉蔵)天保10年(1839)11月20日生。大正8年3月29日没。彼は、定満谷口の城主山倭家長吉の末裔阿波介金郷の後孫である。その経歴概要は、農業を主とし、明治初年には材木商となり、阿波の国と土佐の国を駆け回り、吉野川の材木の流送の始祖ともいえる人である。明治維新に際し、東端山人民総代となり、維新百般の用度を勤務する。明治9年地租改正により、東端山の地主総代となり、改正事務を執りこれを完成した。明治13年小学校を自費で建築して、これを白浦小学校といった(今の皆瀬小学校)。こうした功労によって朝廷から御紋付の三つ組み木杯を賜る。


(御紋付の三つ組み木杯など、見たこともない。ひょっとしたら母屋に伝わっているのかもしれない。)

 爺さんのほうは、和服を着て山高帽をかぶっている写真が残っている。幼い頃、母から「これが、お前の爺さんだ」というふうに教えられた。

 父親と一緒に一代で材木問屋を興し、お金持ちになり、そして破産、という波乱万丈の人生を送った人だ。潰れたのは、台風などにより、吉野川に浮かべていた材木を何回も流されたのが、引き金になったようだ。

 この爺さん、趣味で「うどん店」もやっていたとかで、幼い頃の我が家には、麺棒、岡持ち、打ち台がそろって残っていた。麺棒を引っ張りだしてきては、チャンバラで遊んだものだ。

 爺さんは、懐に、ドイツ製の22口径リボルバー五連発をしのばせ、手には仕込み杖のステッキをついて、あちこちと飛び歩いていたそうだ。母が生まれたのは明治40 年の高知なので、爺さんは明治末期から大正はじめにかけて行動していたものと思われる。

 

 
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