土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
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2010-06-02-Wed  CATEGORY: 未分類
午前5時30分起床。天候は雨だったが、急にやんで晴れになった。室内温度21度、外気温18度の朝だ。 
 
 今朝は、炊きたてご飯、豆腐とワカメと大根の味噌汁、白菜キムチ、納豆と海苔、濃茶をいただいた。

日中は、時折、強い雨が降ったり、晴れたりと、忙しい天候であった。

 


昨日の続き。。。。。。。 
 

母は、白浦亀五郎の長女として、高知市唐人町に生まれた。生まれてから数年間は高知で育ち、その後、亀五郎の本拠地である徳島県の貞光町に引き取られてきたのである。

 母を産んだひと、つまり私の祖母は、高知市帯屋町の商家の娘であったらしい。しかし、何らかの事情で、亀五郎さんと別れ、弟や妹を連れて大阪に出ていき、母一人だけが乳母に育てられた。

 この乳母が本当の母親みたいに育ててくれたそうだ。亀五郎爺さんが財産をすべて失い、亡くなった後、継母と母だけで、残されたで田畑で小作人の人たちから農作物を持ってきてもらったり、骨董絵画を切り売りして生活していたようだ。

 その後、農地開放の嵐により、男手の居ない母の家は、不便な山の狭い畑以外の、ほとんどの農地を取り上げられ、生活に苦しんだようだ。

 農地開放政策というのは、地主から土地を取り上げて小作人に与えるという政策で、日本農業の発展に寄与したのかも知れないが、反対に、生活苦に追われるようにになった旧地主の者も少なからず居たと思われる。

 

「人の目のとどかぬところで弱い者が犠牲にされていっているのである」(宮本常一『民俗学の旅』)



 私の母の話に戻る。

 私の母は、幼い頃の水難事故がもとで、耳が完全に聞こえなかった。川で泳いでいておぼれたのが原因で、耳を悪くしたといっていた。耳を治すために、京都や大阪の大学病院にしばらく入院して治療をしたのだが、治らないままであった。

 でも、生まれながらの聴覚障害者ではなかったので、言葉は健常者と同じように話しをすることができた。

 母の、第三者とのコミュニケーションは、相手の口を見て、つまり読唇術で相手の話を理解することと、手の甲に文字を書いてもらうことの二つであった。

 私は、母と話しをする場合は、文字を知らなくてはならないので、幼稚園の頃には「海賊船」などという文字が読めたり書けたりしていた。(今は、とても書けないが・・)

  母は、耳が悪いせいで、あまり外出はしなかった。家では、町の公民館から本を借りてきていつもむさぼるように読んでいた。そのせいで、目も悪くなり、極度の近視であったようだ。

 

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