土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
うる覚えの貞光町。(喜来渡し)
2010-06-13-Sun  CATEGORY: 貞光町
 午前7時起床。外は雨。昨夜からずっと降り続いている。
 休日、恒例の白粥を食べたところだ。

 口蹄疫の移動制限区域の北限の境は、市内の旭ヶ丘まで来ている。近所にある豚肉専門店の養豚場では、そのことを考えると夜が寝られないそうだ。
 
 市でも、すでに対策本部を設置していて、危機管理体制を強化しているようだ。
 いろいろな催し物、イベントが中止や延期になり、公共施設の閉鎖や休館なども出てきている。

 

 今日は、貞光町のことを書く。

「喜来の渡し」

 私の故郷、貞光町の北側には日本で六番目に長い『吉野川』が流れている。子供の頃「大川(吉野川)は怖い川」というイメージがあり、私たちは貞光川で泳ぎ、大川で泳ぐ者は、少なかった。

 吉野川には、対岸の美馬町喜来と貞光の間に「喜来の渡し」があった。
 喜来渡し


 今の、県立貞光工業高等学校の正門前をまっすぐにいくと火葬場がある。火葬場を右に見て、鬱蒼と茂った竹林の中の道を通り抜けると吉野川の河川敷に出る。渡船場までは、歩きやすいように大きな砂利は取り除けられ、踏み固め道があった。
 渡し


 美馬町の親戚に行くために、父から連れられて、何回か乗船したことがある。船に乗ると、すぐ上流に美馬橋の橋脚だけがポツンポツンと立っていたのを覚えている。

喜来の渡しは、昭和三十三年美馬橋の開通とともに廃止された。六歳の頃である。
以下によると、船頭さんは県の職員だったようである。

 

美馬町郡里喜来と貞光町を結んでいた。現在の美馬橋の下流にあった。
明治の統計書に記載がある。大正4年(1915)郡里村営、昭和18年(1943)県営。
昭和33年(1958)美馬橋の架橋で廃止。


・・・・・・・・・「吉野川の渡し船」より
 

喜来の渡しは貞光町史p.967に詳述されている。写真は、貞光町史から引用した。


 貞光・美馬両町民念願の美馬橋が開通すると、美馬町に行く交通手段は美馬西部交通の乗合バスに変わった。バスは貞光駅前から出た。行き先は「石仏」。「石仏」には、まだ、一回も行ったことはなくて、今も、どんなところか知りたいミステリーの場所だ。

 私たちは、美馬町の途中の「一番坂」バス停で降車し親類の家まで歩いた。

 石仏行きのバスは、美馬町の狭い街並みを走るため、向こうから車が来ると、車掌さんが降りて「ピーピー」と笛を吹きながらバック誘導したり、窓から店の軒に手が届くような距離を、神業と思われるようなハンドル操作でゆっくりと進んでいた。

 一番坂は、もっと広くて長いと思っていたら、こんなに狭くて短い坂だったのだ。
 一番坂



 
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コメント | | 2010-06-14-Mon 07:53 [EDIT]
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