土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
孫を持って知る、親のありがたさ・・なんて
2010-11-15-Mon  CATEGORY: 未分類
 午前5時35分起床。天候は晴れ。外気温12度の朝だ。 
 
 今朝は、炊きたてご飯、豆腐とわかめと椎茸のみそ汁、納豆と海苔、白菜の漬物、濃茶をいただいた。 
 
 今朝は朝刊が休刊。あるものがないと、少し寂しい。 
 
 
 今日は、品質マネジメントの移行審査と、労働安全衛生マネジメントの一次審査があって、管理責任者として、終日、二名の審査員と同席していた。
 
 審査は、明日も続く。 



「じーちゃん、一緒に寝よう」と、ひなたが誘いにくる。

 「ひなたから頼まれると仕方ないなあ」と応じる。

 横になると、ひなたはすぐに「ねえ、お話して」とせがむ。

 桃太郎も金太郎も浦島太郎も因幡の白兎も一寸法師も・・・もう、ネタがない。

 ネタが同じでも、ひなたはそれでいいようだが、私としては、せっかくなら、違う話もしてみたいではないか。

 それで創作して話をするのだ。創作といっても、幼い頃のことや、父から聞いた話をふくらませて語る。
 途中まで話をして「はい。この続きは、また明日」と終わる。

 ひなたは満足したのか、スヤスヤとねむりにつきはじめる。

 遠い昔、私も、今のひなたみたいに、父から腕枕をしてもらいながら、いろいろな話をしてもらった。話をしてもらうのが、楽しみで、いそいそと布団の中にもぐり、父の腕に頭を乗せたものだ。

 ひなたも、あの頃の私のように思っていてくれるのだろうか。

 そういえば、あの頃は、ひとつの布団に親子三人が寝ていた。父と私が並んで寝て、反対側から母が足を伸ばした。互い違いに寝ていたのだ。私の胸元には母の両足があり、足の裏をちょこちょこすると、くすぐたがっていた。

 冬は、こたつが布団の中に入った。母の胸元、つまり、私の足先に置いてくれていた。

 何もかもすべて、私優先で育ててくれた。

 年に数回しか食べられなかった「すき焼き」の肉も、私が優先で食べさせてくれた。

 母は、毎日、カマドの前に座り、マキをくべて火吹き竹で火を起こし炊事をして三度三度食べさせてくれた。
洗濯は、外の庭の溝の上にタライを置いて、家の中の水道から、水をバケツで何回も運んで、洗濯石鹸と洗濯板で衣服を洗ってくれていた。夏の暑い日差しの中でも、冬の手の凍えそうない寒さの中でも・・。

 トイレは、外だった。夜の真っ暗闇は恐い。そうなると、いつも、母がついてきてくれた。明かりは、マッチだった。マッチの炎が消えると次のマッチで明かりを灯してくれた。

 台風が来て暴風雨の真っ只中、南側のガラス窓が吹き飛ばされそうになり、親子三人で力いっぱい飛ばないように押さえていたこともある。

 思えば、隙間だらけの家で、冬は、家の中も外も変わらないぐらいだったろう。


 今から思うと、父も母も、たいへんだったにちがいない。

「赤貧洗うが如し」の「貧乏所帯」だったと思うが、子供の私には、何の苦労もさせないような気遣いをしてくれる、そんな毎日を過ごさせてくれた。


 ひなたと添い寝しながら、そんなことを思っていた。

 子を持って知る親のありがたさ、と言われるが、私の場合は「孫を持って知る親のありがたさ」のように思える。


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