土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
一枚の写真から。
2011-02-03-Thu  CATEGORY: 未分類
午前5時30分起床。晴れ。外気温マイナス1度の朝だ。
 
日中は、寒さがやわらいできたようで温暖であった。

午後から、造成の現場に行った。
造成

造成2



一枚の写真から。

父

 古ぼけた一枚の写真がある。多分、七、八十年以上前、昭和のはじめだ。
 作業服、行者、普段着、スーツ姿の妙に取り合わせの四人の男達いる。

 左から二人目、両腕を組んだ白装束の蓬髪が私の父である。撮影場所は分からないが、四国は剣山中のどこかであることは間違いない。

 父は「阿州 劔山中 孝常道人」としか書かれていない封書が大阪から届いたといって自慢していたぐらい、剱山中を住処として暮らしていた。

 明治末期、四国の山奥生まれの私の父は、山間労務者(木こり)、剣山系の山岳ガイド、炭鉱夫、地方新聞記者、地方紙の発行、町の商工会職員などを務めた。
 
 実直で、曲がったことのできない性情で、潔い一生を過した。世話好きで金銭的には不器用きわまりの無い人だった。


 父、母、私、家人、私たちの子供、そして「ひなた」。命のリレー。考えれば考えるほど、不思議だ。無数の偶然の積み重ね。それを「縁」というのか。

 
頭は天然パーマ。腕も足も胸も髭だらけで、時々、頬ずりされると髭がチクチクして痛かった。七輪に火をつけるとき腕まくりした二の腕を燃え上がった炎の中に突っ込んで髭をパチパチと燃やし、燃えかすの髭を手でなで落としていた。

 五千年の昔、先住者として列島に暮らしていた縄文人は、こんな人たちだったかもしれない。
酒はそれほど強くなかった。父の酒の弱さは私が継いだ。

 母は、高知生まれで酒は強かったらしい。その酒の強さは、兄が引き継いだ。

 私が、父から受け継いだのは天然パーマと酒の弱さ、そして、真面目の真似ごと。
 私も真面目だと人から言われもするが、父の、本当の真面目さ、誠実さの前では薄汚れてみえる。父の愚直は兄のほうが多く受け継いでいる。


「人を恨まず おのれを愧じず こんこんと湧く真清水と生きてゆくべし 」と詠み、そのとおりに生き抜いた父であった。


 父や熱血先生の生き方、考え方に深く共鳴する。そう、ありたいとは思う。

 でも、かられのような生き方はできない。

 私は、私の生き方しかできない。

 それでいい。


 




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