土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
貞光町 うる覚えの記。 永尾先生。
2011-02-09-Wed  CATEGORY: 貞光町
 午前5時35分起床。天候は曇り。外気温10度の朝だ。
 路面は湿っていたが、相変わらずの「煙霧」なので晴れだが曇りだかはっきりしない空模様。

 空が明るくなると、昨日よりは、視界良好の晴天となった。




貞光町うる覚えの記  一枚の写真から。
 棟方志功


 左腰に手を当てメガネをかけて熱弁をふるっているのは「棟方志功さん」だ。
場所は、貞光小学校の職員室。いつのことか、はっきりとしない。多分、50年ぐらい前、昭和30年代だと思う。

・と思いつつ、Webで「貞光町 棟方志功」で検索してみると・・・・

・・・・まずは志功と徳島との関わりについて見ていくことにしよう。 昭和三一年の暮れ、十二月十五~十七日の会期で「棟方志功芸業展」(徳島芸術鑑賞会主催)が徳島市憲法記念館で開催された。十六日夕方、展覧会に合わせ来徳した志功は、徳島市建設会館で開かれた座談会に出席。次のようなことを語っている。 「私が板画を始めたのは伊原宇三郎画伯にすすめられたのがキッカケです」、いっそ絵をやめて人のやらないものに手を出したら、との伊原の言葉が板画を始める契機になったという。 なお、この来徳で志功は『徳島新聞』夕刊に「歳末徳島」を五回連載(十二月十八日~二八日)したり、貞光へ講演会に行ったりもしている。



 昭和31年の暮れに、貞光町を訪問されことがわかる。

 いつか、この「歳末徳島」の連載記事を読んでみたいものだ。当時の「貞光町」のことを書かれている可能性がある。

 ところで、写真には、知った人が写っている。一人は、棟方志功さんの腕の影に隠れてたる方で、はっきりとはしないが「F先生」のようにみえる。

 もう一人は、左から二人目の永尾先生だ。

 当時、貞光町には「永尾医院」「北川医院」「谷医院」「古城医院」などがあり、北川医院と古城医院には同級生も居た。

 永尾先生は「永尾医院」の先生だ。

 小学生の頃、家で昼食をとり、ふざけながら登校していたら、自転車と正面衝突して、口の中を切ったことがある。
 近くに「永尾医院」があり、口を両手で押さえ血をぽたぽたと垂らしながら、永尾医院に行き、勝手に上がってどんどん奥に進んだら、永尾先生が奥様と二人で食事をとられていた。私の姿を見てびっくりされていたが、そのまま、診察室に連れていかれ、麻酔をかけないまま四方から押さえつけられて、前歯の歯茎のつけ根と下唇の下、合計8針を縫っていただいた。

 激痛だったが、体を固くしてじっとしていた。
 あとから「よう、頑張った。たいしたものだ」とほめていただき、子供ごころにうれしくなった。

 永尾先生は、北川医院の「北川伝蔵先生」に感じが似ていて、温厚でやさしい先生であった。
多分、教育委員会に関係されていたのだと思う。

 ほかの町の医院と同じで、内科も外科も小児科も耳鼻咽喉科も、なんでもこなしてくれたオールマイティのお医者さんであった。

  今も貞光町には「永尾病院」がある。ご子息が跡をついでおられるのだろう。

スポンサーサイト
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
コメント

管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
TB*URL
<< 2017/08 >>
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -


余白 Copyright © 2005  日々(いや、気のむくままに)読み書き. all rights reserved.