土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
貞光町 うる覚えの記。 北川医院。
2011-02-22-Tue  CATEGORY: 貞光町
 午前5時33分起床。天候は晴れ。外気温3度の朝。
 朝と昼の温度差がはげしい。日中は、多分、17,8度ぐらいになった。

 


一枚の写真から・・・・・・

 貞光町うる覚えの記。北川医院。
 医院

 一枚の写真から。北川医院のことなど。

これは、北川医院の玄関だ。

 先生は、町長もつとめた「北川伝蔵先生」だ。
 貞光に来られる前は、伊豆諸島の新島でお医者さんをしていた。それが、なぜ、貞光に来られたのかは知らない。
 北川先生と我が家の祖父は親交があり、祖父が死去し私の父母の時代になっても、父や母とは親しくしていた。
北川医院には、鎧兜や木刀、掛け軸、日本刀など多くの骨董品があったが、私の祖父さんが贈呈したものだったと耳にした。

 先生からは、時々、くさやの干物をおすそ分けしていただいたが、これが、強烈な匂いであった。
先生は、上品でやさしくて温厚な方で、わたしも「のぶちゃん、のぶちゃん」と優しく接してもらった。
我が家にも、よく、遊びに来て、父と話をしていた。

TVの野球中継を見ながら・・

「ボールを打ったのに、なんで、あの選手は走らないのですか」
「あれは、ファールといって、白線から外に出たら走らなくてもいいのですよ」
「ああ、そうですか」

・・・・といった会話を、ナイター中継を見ながら、父と先生がしていたことが印象に残っている。

医院の二代目は養子の一善先生になり、医院から病院に変わった。
東側に木造で病室が建てられた。
その後、栗尾菓子店の倉庫があった場所に、鉄筋コンクリートの病院が造られた。


小学校4年生の頃、北川伝蔵先生が亡くなられた。
私は、みんなと一緒に、大須賀にある焼き場まで行った。

焼き場の中で待機していると焼き場の係の人から「こっちきてみない」と手招きされて、焼き場の後ろに回り、覗き窓から、北川先生が炎の中で焼かれているのを目撃した。
人体の焼ける臭い、煙突からの黒煙、燃え盛る炎と人体と思われるもの。。。。

焼かれて「お骨」になった人を見たのも、北川先生が初めてだった。




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