土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
貞光町  貞光小学校
2008-05-20-Tue  CATEGORY: 昭和の話
  私の通った小学校は「貞光小学校」である。明治5年(1873年)の9月に開校とあるので今年で135年の歴史がある。

今は、少子化の影響を受け、全校児童数200名ぐらいの規模になっているようだ。

 

 私は昭和33年4月から昭和40年3月までの六年間をここで過ごした。

  当時はすべて木造校舎で、生徒数は、一学年が3クラスと特別クラスが1クラスあったので、一クラス40名として、全校児童は800人前後の規模であったろう。

 校門の正面には、円形の植え込みがあり、かつては、両側に、ミモザ(アカシア)という背の高い木が植わっていた。記念写真というと、この植え込みの前で、各学級ごとに集合写真を撮影していたものだ。
講堂


 実は、このミモザ、私の父が植えた木で、向かって左側の木は落雷で、右側の木は、そのあと邪魔になって撤去された。

 円形の植え込みの後ろには、講堂がそびえたち、講堂の北側と南側に校庭があった。北の校庭には、ブランコ、鉄製の滑り台、竹のぼり、大きな自然石、コンクリート製の三角形の障害物などが置いてあり、南の校庭には、何もなかった。

北校舎
正門と北校舎

 校舎は、講堂をはさむ形で、古い南校舎とま新しい北校舎わけられ、南校舎は平屋。北校舎は二階建てであった。 講堂の後ろ(西側)にも独立した校舎があった。

 一年生、四年生、五年生、六年生の頃は北校舎。そういえば、北校舎の西の端には、薄暗い理科室があった。

 二年生、三年生当時は南校舎で過ごした。 六年生の頃、南校舎の3年生の教室に、自習の監督のために行ったこともある。南校舎の西端には「こども銀行」があり生徒が運営していた。私は、一回も銀行を利用したことはないが・・。

同級生


 講堂の一階は、職員室、保健室、図書室、視聴覚室、用務員室、校長室などがあり、二階が広い講堂になっていた。

 東京オリンピックのときは、ほぼ、毎日、視聴覚室でオリンピックを観戦していた。当時の担任の藤川先生という方が「オリンピックが日本で開催されることは、お前たちの人生ではないだろう。一生に一回のことだから、みんな、見なさい」と見せてくれたのだった。

 講堂では、入学式、新年式、卒業式といった式典から、人形劇、学芸会、映画から、手品や曲芸などの見世物も行われていた。千人を越える 生徒でも収容できるくらいの広さがあった。

 当時、町には、体育館などはなくて、多くの人が収容できる、広い施設は、貞光劇場と講堂しかなかった、ように思う。

 町の商工会がよんだ「若原一郎ショー」や「大津よし子ショー」などは講堂だった。

 講堂の正面は一段高いステージ、大きい漆黒の古時計、そしてピアノがおいてあった。

 窓には、表が黒、裏が朱色の分厚いカーテンがあり、カーテンを閉め切ると真っ暗闇になった。ゴジラとアンギラスが対決する「ゴジラの逆襲」は、講堂の木製の長椅子に腰掛け、手に汗を握ったものである。

 北校舎の北側には、町道をはさんで池があった。(今は埋め立てられている。)

 学校の西側は熊野の森があった。そこに「ごみ焼き場」があって、ここに学校のゴミを捨てにいって燃やしていたものだ。

 南校舎の南側には、ちょっとした空き地をはさんで、隣接する中学の体育館があった。体育館の窓の外には、数本の大きなプラタナスの木があり、その向こうは運動場が広がっていた。運動場の北側と西側を囲むような形で、中学校の校舎が建てられていた。
小学校図


 運動場は、小中が共有していた。運動場の南のはずれに、平屋で出来た幼稚園の園舎があった。

 こうしてみると、幼稚園から、小学校から中学校まで、一貫教育のような形であった。今の時代を先取りしていたのかもしれない。

 私は、このような小学校で、大切な少年時代を過ごしたのだ。



スポンサーサイト
ページトップへ  トラックバック0 コメント0
コメント

管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
TB*URL
<< 2017/08 >>
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -


余白 Copyright © 2005  日々(いや、気のむくままに)読み書き. all rights reserved.