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土木建設業に従事していますが、専門分野のことは少なくて、昭和のこと、故郷・徳島のこと、延岡のこと、雑多なことを自分の記録として日記代わりに書いています。St.3bの「がんサバイバー」でもあります。
 日々(いや、気のむくままに)読み書き
馬の田楽から・・・・・ 徳島、貞光町。
2010-01-20-Wed  CATEGORY: 昭和という時代
 落語に「馬の田楽」という咄がある。

「桂米朝さん」の馬の田楽と「柳家小さん治さん」のでは、落ちは同じだけれど展開が、かなり違う。
上方の「馬の田楽」は、悪がき同士の会話や馬子と悪がきとのからみが面白くて笑える。
悪ガキどもが馬に悪戯をするところは、上方も江戸も同じだ。

咄を聞きながら、子供の頃、馬に悪戯して大騒ぎになったことを思い出していた。

50年ぐらい昔のことだ。

貞光川の河畔に、馬がつながれていた。
私は、堤防の上の桑畑から、堤防越しに、石ころを馬にぶつけて遊んでいた。
馬は、石ころが背中や尻に当たっても、気にも留めない風で、黙々と道端の草をはんでいた。

馬の無反応が面白くない私は、小さな石から大きめの石、一個づつ投げていたのが、ひとつかみにして投げたりと段々とエスカレートしていった。

その時は、突然にやってきた。

急に、たず縄をふりほどくと、馬は堤防に上り、疾走をはじめた。上流に向って走ったかと思うと、長橋のたもとでUターンして下流に走る。何回も何回も堤防上を往復して暴走をはじめたのだ。

内心「わー、どうしよう」と思いなが眺めていたら、飼い主と思われる男性が、堤防の上の畑から、疾走する馬の背中に飛び移って暴走を停めた。

「わー、すごい」

我に帰った私は、すぐに、振り返りもしないで、怒られないうちに、一目散に逃げて帰った。


「馬の田楽」に登場する悪ガキたちと、幼い頃の私たち、することは、よく似ていたものだ。


 馬が暴走した当時の堤防。
昔の貞光川

 今の堤防。
 今の貞光川



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まつり
2009-10-19-Mon  CATEGORY: 昭和という時代
 かつて、まつりがあった。私には、祭ではなく「まつり」と書くほうが似合っている。
 秋には、各町内、各集落の氏神様をまつるために、みこしや山車が街中を練り歩いた。そして、「まつり」には、親戚が一同に会して、甘酒、五目寿司、団子、田楽、巻き寿司、煮しめを食べる。大人たちには酒が振舞われてにぎやかな一日を過した。

  「まつり」がある、という理由で学校も堂々と休むことが出来るほど、地域にとっては、大切な行事だったのである。子供たちは、もらった小遣いをポケットに氏神様の神社まで走る。境内には、いろいろな出店が出ている。夜になると、カーボナイトの明るさと奥の木立の暗闇のコントラストが幻想的な情景をかもしだしていた。

  「まつり」というのは地域社会において、何かの役割を果たしていた。

 でも、こういった催しはいつのまにか廃れてしまった。何故なのだろう。「まつり」よりももっと魅惑的なものを覚えたせいだろうか。「まつり」の役割が必要でなくなったからであろうか。そればかりではあるまい。

  或る人によると、まつりが無くなったのは明治39年の神社合祀令により神社仏閣が統合されたことが大きいという。神社合祀令というのは、神社ならどこでも生き残れるというのではなくて、古事記・日本書紀に記された神々を祀った神社、あるいは延喜式内社やそれに準ずる社を除き、民衆から信仰の厚かった産土神(うぶすなのかみがみ)を含むおびただしい数の神様が合祀の候補となり、多くの神社が廃止されたという。

  神社合祀は、国の経済政策、イデオロギー政策の一貫で、国から地方におろされていった。あの戦争に突入する背景として、神社合祀は必要であったのである。ここでも、経済と何かのトレードオフがあり、ほとんどの人は経済を選択したのではなかろうか。

  このとき、天才、南方熊楠(みなかたくまぐす)という人がただひとり反対を唱えた。

「…神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す」
 → 大火まさにおこり林野を焚くより。。。。。

  つまり、氏神様から心が離れてしまう、地域住民の争いごとが増える、地域社会の自律意識が衰亡する、人情風俗が薄くなり道徳が廃れる、地域を大切にする気持ちがなくなりひいては国を大事にする気持ちが無くなる、鎮守の森がなくなれば有益な鳥が居なくなり作物を荒らす害虫が増えたり自然環境が悪くなる、貴重な文化や伝統・歴史が失われる、学術的天然記念物貴重種が絶滅する・・・・というところだと思う。

  この南方熊楠の言葉、今の時代にも通ずるものがあるように思えてしかたがない。構造改革、神の見えざる手、勝ち組と負け組み、都市部と地方、格差社会、貧困、アメリカの真似、このようなことを書くと、勝ち組の人たちからは「バカけ」と思われるかもしらないが、どこか、いびつにゆがんでいるように思えるのである。

  日本には日本の「和、輪、環」のミームがある。何もかも、すべてアメリカみたいになろうとしても、無理なのである。いいところを取り寄せ、向いていないところは捨てる、そういう改革なら納得できないでもないが、今のままでは、かつての南方熊楠の予言どおりになるのでは、というような気がする。

  便利を取得する代償として、目に見えない大切なものをドンドンと失ってきて得た社会は、あまりいいものではなかったと、ぼちぼち、述懐と反省と批判の声が高まってきているようにも思える。

 そういうことに、期待を寄せたい。


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昭和という時代 5
2009-09-15-Tue  CATEGORY: 昭和という時代
明かりは暗かった。

夜は、白熱電灯の下で夕食を食べていました。我が家は60Wの電球を使っていたようです。ソケットの横についているレバーを横に回して点灯していました。白熱電灯は「たまが切れる」ことが多かったように思います。それから、少し進歩すると、ソケットの横に紐がぶら下がっていて、紐を引っ張って点灯するようになりました。そして、松下翁の発明した「二股ソケット」もありました。

かなりあとになって「蛍光灯」がはじめて灯ったときなどは、昼間のような明るさにおどろいたことがあります。

  夜の外出は、懐中電灯はありましたが、と同時に「提灯」も使用していました。提灯の内部に蝋燭をセットしてマッチで火をつけて、夜の山道を東山の親戚まで歩いていったこともあります。街灯などはありませんでしたが、提灯の暖かな柔らかい明かりは、大いに役に立ちました。

 こうしてみると「今」と「昭和」を比べたら「今」のほうが、はるかにいいにきまっています。



 今になってみてわかることですが「昔」もいいことはありました。

  当時は、誰しもが頑張ればなんとかなる、といったものがありました。つまり、先行きは右肩上がりしかなかったのだと思います。希望を持ちやすい社会だったのです。だから、貧乏していても、そんなに暗くはありませんでした。

  そして、なにかしら「ゆとり」みたいなものがあり、少しぐらいなら「いいよ」という、ゆるし、がありました。今みたいに、うるさいことはありません。もっと「ゆるやか」でした。今みたいに、殺伐とした雰囲気はなかったように思います。

  今は「いい」か「悪い」か、ふたつしかありません。その「中間」があって、当時の世間は「中間」を認めて、ゆるしてくれた、のだと思います。

 
  

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昭和という時代 4
2009-09-14-Mon  CATEGORY: 昭和という時代
銭湯は社交場だった。

風呂といえぱ、銭湯です。風呂代は大人、小人、洗髪代と分かれていて大人で15円か20円ぐらいではなかったかと思います。家庭に風呂があるのは商家などの裕福な家で、ほとんどの家は、もっぱら銭湯でした。貞光町にも、「南風呂」「中風呂」「北風呂」の三軒の銭湯がありました。遅い時間帯になるとお湯の水面にびっしりと垢が浮いていたということもありました。そうなると、さすがに湯につかる人は少なくて、壁の部分に腰をかけて足湯みたいに両足だけ湯船につけている人ばかりでした。
風呂は、大きな湯船と小さな湯船があり、小さいほうは「くすり風呂」とよばれて湯温が低く白濁していました。


小学低学年の頃、母に連れられて一度だけ「女湯」に入った記憶があります。湯船は「男湯」と対称になっていました。そこに、同級生の女の子の姿をみとめて「もう、絶対に女湯にははいらないぞ」と心で誓ったことなどが記憶に残っています。


 銭湯に来る人の顔は様々でした。今でも印象に残っているのは、熱湯好きの荒物屋のオヤジ、背中一面に彫り物をした町会議員、左肩から先の無い片腕の人・・・・。

 今思えば、銭湯というのは、老人・子供から大人まで裸の付き合いをする一種の社交場という一面もあったのだと思います。


 そこで、子供たちは、風呂上りのコーヒー牛乳のおいしさだけでなく、お風呂に入る手順や体の洗い方など、世間との付き合い方を体で勉強したのだと思います。

 
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昭和という時代 3
2009-09-12-Sat  CATEGORY: 昭和という時代
 昨日はブログの更新を怠ってしまいました。と、いうより忘れたのです。


 昭和を語るとき、読み返してみると、なんだか暗いような雰囲気になっていますが、当時の実感としてはけっして暗いものではなくて、今よりも、明るいような気がします。

 もうすこし、続けます。




 町には商店街もありました。家並みの裏にいくと、空き地を利用して畑がそこかしこに耕されていました。畑は、肥やしの匂いでした。昭和は、肥やしの匂いがそこかしこに漂っているといった時代でした。

 事実、トイレはすべて汲み取り方式で、尻を洗ってくれるトイレなんて想像もできないような時代でした。そして、農作物の肥料はほとんど下肥を使っていたので、肥やしの匂いはつきものだったのです。また、街角には、大きなゴミ箱が設置されていて、その周りを何匹もの野犬がうろついていたり、夏になると蝿が黒雲のように飛び回っていたりしていて衛生状態は良好ではありませんでした。

ところで、映画「三丁目の夕日」はとてもいい映画ですが、もし、あの映画が匂い付きの上映だとしたら、臭くて辛抱できない人も出てきただろうと思います。

子供の数は多かった。
 昭和の貞光の子供たち。



当時は、子供たちの数が多く、私の通っていた貞光小学校は一学年三クラスで全校児童は八百人を越えていました。当時と比較するために、現在の児童数を調べてみました。
現在の全校児童数は百九十二名となっています。当時の約四分の一以下に減少しています。これをみると少子化が実感できます。

子供の数は多いのですが、毎年、水難事故や病気で数人の子供が命を失うのも多いものでした。病気では伝染病で亡くなる子らもいました。赤痢などが発生するたびに、保健所から白マスクの係員が来て、学校の便所を消毒していました。予防注射は、結核、疱瘡、日本脳炎、ジフテリアなとがありました。また、目の病気も流行することもありました。

 昭和の子供たち


水泳は「川」でした。川で泳ぐ場合は、遊泳禁止区間や遊泳禁止時間があるにはありますが、基本的には自己責任でした。私自身、二回ほど溺れかけて死にそうになったことがあります。私の同級生も溺れて亡くなった子が数名いました。また、病名はわかりませんが、小学校二年の夏休みは、毎日、母に背負われて医者に連れていってもらい、激しい下痢で苦しんだことなど鮮明に記憶しています。

私たちは、そういった、様々な「試練」を無意識のうちにくぐり抜けて、今、生きています。
 こうしてみると、生かされているのだなあ、と思うこともあります。


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